第20話

 店は開店してすぐに満席となっていた。秋山はそれを見越してか、叶向の隣の席を予約席として確保していた。

 叶向はソフトドリンクを飲みながら時間を確認する。時刻は二十時を過ぎたところ。まだ如月は来ない。表示された時刻の数字が変わっていくたびに心が少しずつ重くなる。


 ――やっぱり帰ろうかな。


 一応、店には来たのだ。秋山にはそれで言い訳も立つはず。

 叶向が何度目ともわからないため息を吐いたとき、カランとドアベルが鳴った。そして「いらっしゃい」と愛想のない秋山の声。反射的にドアの方へ視線を向ける。そして一瞬、息が止まった。


「水無月……」


 呆然とした顔で呟き、入り口に立ち尽くしているのは如月だった。疲れた顔は照明のせいか職場にいたときよりも顔色が悪く見える。

 水無月は口から息を吐いて視線を泳がせる。どんな表情を向ければいいのかわからない。


「ここ、どうぞ」


 ふいに秋山の声がしてカウンターに視線を戻す。彼女は無表情に叶向の隣に炭酸のソフトドリンクを置いた。


「どうも……」


 如月は緊張したような硬い声で言うと、ぎこちなく叶向の隣の席に座る。そしてドリンクを一口飲んだ。

 気まずい空気が二人の間を支配していく。店のBGMがなければ窒息してしまいそうなほど息苦しい。チラリと視線を向けると秋山はカウンターの端で煙草を吹かしていた。


「……水無月」


 ふいに呼ばれて叶向は如月に視線を向ける。彼女はグラスを両手で握るようにしながら「えっと、それはお酒?」と小さな声で言った。その視線は叶向の前に置かれたグラスに向けられている。


「……ううん。オレンジジュース」

「そっか」


 そして再び沈黙。微かに如月が息を吐く音が聞こえた。こんな会話をしたいわけではないのだろう。しかし、彼女はそれきり黙り込んでしまった。

 グラスを握る手には力が入っているのか、指が少し白くなっている。叶向はそんな彼女を横目で見ながらグッと顎を引くと「話があるって、美守から聞いた」と口を開いた。


「……うん、そう」

「なに?」


 聞いてみるも彼女はグラスに視線を向けたまま答えない。

 この沈黙が嫌だ。彼女からどんな言葉を聞かされるのか知りたくもない。かといって何か別の話題を探せるほど余裕もない。

 頭の中はもう真っ白だ。

 叶向は手元に視線を向けて「こないだのことなら忘れてよ」と思いつくがままに言葉を吐き出した。


「嫌だったでしょ。いきなりあんなことされてさ。謝るよ。如月には付き合ってる人だっているんだし――」

「違う」


 強い口調だった。叶向は思わず言葉を止めて如月を見る。彼女はグラスから視線を上げると叶向へ顔を向けた。


「もし松本のこと言ってるなら違うから。わたしは誰とも付き合ってない」


 彼女はそう言うと「わたしは、誰とも付き合えないよ」と悲しそうに続けた。その意味がよくわからず、叶向は眉を寄せる。


「そんなことない。だって如月は――」

「そんなことあるんだよ。たしかに今まで何度か付き合ってみたりしたことはあるけど」


 ――ほら、やっぱり。


 叶向は心の中で思う。彼女はやはり自分とは違うのだ。普通に恋愛をして、普通に幸せな人生を送ることができる。だから自分とはもう関わらない方が良い。

 そう思ったが、如月は「水無月が悪いんだからね」と少し笑みを浮かべた。


「え、わたし?」

「そう。水無月、言ってたでしょ? 好きじゃなくても付き合ってみたら好きになるかもしれないって」

「……それで、付き合ったの?」

「うん。まあ、全然そんな気持ちにはならなかったけど。高校時代から、わたしは変わらないみたい。ダメだね。もう大人なのにさ」


 彼女はそう言って悲しそうに笑った。その見覚えのある笑みはたしかに高校時代の彼女と変わらない。

 叶向は「でも」と自分の手元に視線を向ける。頭の中に浮かんできたのは高校時代の嫌な記憶。想い出したくもない光景。


「……如月、高校のとき男子と付き合ってたよね?」

「あれは、水無月が――」


 言って彼女は口をつぐんだ。叶向は軽く笑う。


「やっぱりわたしのことが嫌になったんだ?」

「違う。そうじゃなくて……」


 彼女はそう言うと「水無月が、わたしといると悲しそうな顔をしてたから」と消え入りそうな声で続けた。


「わたしといると辛いのかと思ったから……」


 叶向は如月へ視線を向け、そして「ふうん。そう」と息を吐き出した。

 彼女の言う通りだ。あの頃、如月といるとたまらなく悲しくなった。辛くなった。しかし、それでも彼女にそばにいてほしかったのに。


「……なんで水無月、わたしのこと嫌いになったの?」


 ――違う。嫌いになんてなってない。


「なんでこないだ、キスしたの?」


 彼女は続ける。感情のこもらない声で。怒っているのかどうかもわからない。


「わたし、わかんないよ。水無月のこと。今も昔も」


 ――わたしだってわからない。自分のことも、如月のことも。


「ねえ、水無月」


 静かな声には力がなく、微かに涙混じりだった。叶向はゆっくりと視線を彼女に向ける。彼女は青白い顔に涙を浮かべていた。


「わたしのこと今も嫌い?」

「……わたしのこと嫌いなのは如月の方でしょ」

「嫌いじゃない」


 彼女は強い口調で即答した。そして「嫌いじゃないよ。ずっと。今も、昔も」と柔らかく微笑んだ。


「水無月は?」

「……嫌いじゃない。如月のこと、嫌いになったことなんてない」

「良かった」


 心から安堵したように彼女は泣きながら笑った。化粧もほとんどしていない青白い顔で笑う彼女は儚く、とても綺麗だ。叶向は思わず彼女の頬に手を伸ばしかけ、しかしすぐにその手を下ろす。

 彼女はそんな叶向をじっと見つめて「こないだ、なんでキスしたの?」と柔らかな口調でさっきと同じ質問を繰り返した。叶向は彼女を見つめ返す。


「ムカついたから」


 叶向の答えに如月は驚いたように目を見開いた。そしてフッと笑う。


「何に?」

「如月が、わたし以外の相手に頭撫でさせてるのが」


 素直に答えると彼女は今度は声を上げて笑った。


「ヤキモチだ」

「違う」


 即座に否定すると彼女は笑みを顔に残したまま「……うん、わかってる」と力なく頷いた。


「違うよね。だって水無月には秋山さんがいる」

「美守?」


 叶向は眉を寄せた。


「付き合ってるんでしょ?」

「……美守がそう言った?」

「言ってない。けど――」


 叶向は秋山に視線を向けた。彼女はいつもと変わらぬ様子で客の話相手をしている。


「美守とは付き合ってないよ。そういう関係じゃない。美守は、違う」

「でも――」


 如月は何か言いかけたが、すぐに力が抜けたように「そっか」と息を吐きながら頷いた。そして目尻に残った涙を拭いながら「だったらさ」と明るい声で続ける。


「わたしたち、また戻れないかな? 昔みたいに」

「友達に? それならムリだって前にも――」

「付き合おうよ、わたしと」


 その言葉に叶向は彼女を凝視する。如月は明るい笑みを浮かべたまま「また、あの頃みたいにさ」と何でもないことのように言った。


「――本気で言ってんの?」

「言ってる」


 笑顔で言う彼女の言葉は、しかし決して冗談を言っているようには聞こえない。叶向は彼女を見つめながら「好きなの? わたしのこと」と訊ねる。しかし彼女は首を横に振った。


「わたしもだよ。それでも付き合うの?」


 如月は頷いた。


「なんで?」

「わかりたいから」

「なにを?」

「水無月のこと」


 なんて一方的で、なんて勝手な言い分だろう。まるでこちらのことを考えていない。それでも彼女の言葉に嬉しくなってしまう自分が嫌だ。また彼女にすがってしまいそうな自分が怖い。しかし同時に期待も沸き上がった。ずっと欲しかったものが今度こそ手に入るのではないか、と。


「――いいよ」


 気づけば、叶向はそう答えていた。

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