煙草の香り
第14話
耳障りな機械音が微かに天井から聞こえる。空調の具合が悪いのだろう。冷たく強い風がデスクの上の用紙をパタパタと煽っていく。その音に苛立ちを覚えた一花は用紙の束を掴むと位置を変えた。
「如月。それ、今日中に仕上げないと客先でのミーティングに間に合わないからな。ちゃんとまとめとけよ」
一花が乱暴に資料を移動させたのが目に留まったのか上司がすかさず釘を刺してきた。一花は返事をしながら視線を上司の隣のデスクに向ける。そこでは水無月が無表情にモニタと向き合う姿があった。
彼女の席が移動となったのは先月の終わり。とくに理由は聞いていない。この職場では席の移動なんて日常的なものだ。作業の都合上での移動。そのはずだ。決して水無月が一花から離れたいと申し出たわけではないはず。しかし席を移動してから水無月とは業務上の会話すらなくなってしまった。
一花は深くため息を吐いて、何度目ともわからない同じ思考に囚われる。
なぜ水無月がキスをしてきたのか。どうしてあんな表情をしていたのか。悲しそうで怒っているようで、どこか諦めたような、そんな表情。しかし何度考えてもわからない。
水無月のことは今も昔も一花にはわからない。
「如月さん、これも明日のミーティングに必要な書類なので一緒にお願いしますね」
声と共に再び用紙の束がドサッと置かれる。一花はうんざりしながらも「了解です」と力なく答えた。八月に入ってからというもの残業が続いている。今日もまた定時には上がれそうにない。
――水無月と話をしたいのに。
しかし、たとえ一花が退勤時間を彼女と合わせたところで彼女は一緒に帰ってくれないだろう。
一花は再び水無月へ視線を向ける。彼女の向こうにある窓から見える空は、絵に描いたような夏の青に染まっていた。
そんな状態で迎えた金曜日。すでに時刻は二十一時を回ろうとしている。フロアには、もうほとんど働いている者の姿はない。
「なー、如月。まだ終わんねえの?」
そう言ったのは暇そうに椅子に座ってスマホゲームをしている松本だった。一花はそんな彼を横目で睨んでから「なんでいるの?」と冷たく言ってやる。
「金曜の夜なのにヒマだから呑みにでも行こうかと」
「……行けば?」
すると深いため息が聞こえた。
「金曜の夜に一人で残業してる可哀想な同期を励ましてやろうという俺の気持ちをありがたく受け取れよ」
「いや、なに? けっこう意味わかんないから。なんでわたし残業してるのが可哀想になってんの」
「だって最近は毎日じゃね? 残業。仕事の振り分けとかちょっと考えてもらった方がいいんじゃないの」
「ああ、これはわたしが悪いからいいの。最近、集中できてないから」
「……最近じゃないだろ、それ」
その声が予想外に真剣なもので一花は手を止めて彼を見た。松本は真面目な顔で「何かあったんじゃねえの?」と続けた。一花は笑う。
「この前もそんなこと言ってたね。わざわざコンビニで待ち伏せしてさ。あれマジで怖かった。ストーカーかと思ったよ」
「うっせ。心配してやってんだろ」
「はいはい。ありがとうございます。あのときも言ったけど、別に何もないから」
「ほんとかよ?」
「ほんとだって。あ、それから松本。気軽に人の頭を撫でる癖、気をつけたほうがいいよ? 妹や弟が多いから癖になってるって言ってたけど、何も知らない子がいきなり頭撫でられたら勘違いするかもしれないし。とくに女の子は」
「ほう? 俺が好きなんじゃないかと?」
「いや、セクハラだって」
「おい、こら」
一花は声を上げて軽く笑うと、ファイルを保存してパソコンの電源を落とした。
「お? ようやく終わりかよ。長かったわー。ヒマすぎて死ぬかと思った」
「……わたし帰るけど?」
「いや、待て。何でこの状況で帰るんだよ。俺が奢るから呑み行こうって。な?」
「一人で行けば良いじゃん」
「一人じゃ寂しいだろ!」
子供のように喚く松本に苦笑しながら一花は「しょうがないな」とため息を吐く。
「行ってもいいけど店はわたしが選ぶ」
「おう、いいぞ。ただし高級すぎる店は無理だ」
「値段は知らないけど、たぶん大丈夫」
帰り支度をしながら一花は呟く。脳裏に浮かんだのは水無月と抱き合う秋山の姿。
二度と近づかないと決めたはずだった。それでも行こうと思ったのは水無月がいるかもしれないからだ。水無月に会えるのなら秋山と会うことだって我慢できる。
「……大丈夫」
グッと奥歯を噛みしめ、一花は松本と共に彼女の店へ向かった。
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