第13話

 花火大会の会場は海沿いだ。普段は車が通る道も規制されて開催時間だけは歩行者天国になっている。去年は友人たちと来たのだが、今年は如月と二人。もしかするとどこかにクラスメイトもいるかもしれない。その誰かに如月と手を繋いで歩いているところを見られたら、どう思われるのだろう。


「知ってる人、いたりするかな」


 ふいに聞こえた如月の声。視線を向けると彼女は居心地が悪そうな顔で人混みを見ていた。


「嫌? わたしと一緒にいるところ見られるの」

「そういうわけじゃないけど、でも手が――」


 如月の視線は繋がれた手に向く。叶向はわざと彼女の手を握り直すと軽く揺らした。


「これが気になるの?」

「普通は女子高生同士が手を繋いだりしないんじゃない?」

「付き合ってるならするでしょ。それに、人が多くて迷子になりそうなときも多分する」

「……そうかもしれないけど」


 彼女は何か言いたそうな様子だったが、それきり口を閉ざした。そして無言のまま歩き続ける。

 この何となく気まずい空気はなんだろう。如月がこんなに無言でいることが珍しいからだろうか。

 周囲には屋台から香ってくる美味しそうな匂いが溢れている。普段の彼女ならきっとアレが食べたいとかあの屋台に行ってみたいとかはしゃぐに決まっている。それなのに隣を歩く彼女は周囲を気にするばかりで楽しそうではない。


 ――嫌、なのかな。


 彼女が嫌がっているのなら無理に手を繋ぐ必要もない。そう思って手を放すと、彼女は驚いたように立ち止まった。そして少し悲しそうな表情を浮かべる。


「水無月……?」


 呟いた彼女の声は消え入りそうだった。叶向は微笑むと適当に屋台を指差した。


「お腹空かない? 奢るよ。彼女として」

「……お金、ないんじゃなかった?」

「これくらいなら大丈夫」

「ふうん。じゃ、奢ってもらおうかな」


 力なく笑って彼女は屋台の方へと向かう。その背中はなぜか寂しそうで、さっきよりも元気がなくなったように見えた。


 ――なんでだろう。


 その場に立ち止まって自分の右手を見る。彼女の温かさがまだ残っている。彼女の手の柔らかさも。


「……わかんないな、全然」


 叶向は呟き、右手に拳を握った。そのとき「あれ。如月?」と男子の声が聞こえた。視線を上げると焼きそばの屋台の前で如月が男子のグループと向かい合って立っていた。そのどれも見覚えのある顔だが、全員別クラスの生徒たちだ。その中でも彼女に声をかけたのは小野寺という男子だった。

 たしか前にクラスの誰かが言っていた。春先、如月に告白をして振られた男子。彼は「浴衣なんだな。すげー似合ってる」とはにかんだ笑みを浮かべている。周りにいる彼の友人たちがニヤついているので、小野寺がまだ如月に好意を持っていることは明白だ。

 一度は振った相手。きっと如月は困っているだろう。そう思って彼女に視線を向けた叶向は、その表情を見て思わず足を踏み出していた。

 彼女は恥ずかしそうに笑みを向けていたのだ。いつもの作り笑いとは違う、叶向には向けたことのない笑みを。


「あれ、如月。髪になんかついてるぞ」

「え、どこ?」

「ちょい待ち。ここに――」


 小野寺が如月の髪に手を伸ばす。その手が彼女の髪に触れる前に叶向は「如月」と彼女の手を引っ張った。


「うわ!」


 如月は声を上げながらよろけて叶向の腕の中に倒れ込んでくる。


「ちょっと水無月、危ないよ」

「うん。ごめん」

「あ、水無月さんも一緒だったんだ。他にも誰か?」


 小野寺は誤魔化すようにヘラっと笑って周囲に視線を向ける。


「どこかにいるかもね。行こう、如月」


 叶向はそう言うと彼女の返事も待たずに手を引っ張って歩き出した。

無性に腹が立つ。心がチクチクする。


「水無月? ちょっと待って。速いよ、歩くの」


 カラコロと鳴る彼女の下駄の音がときどきリズムを崩す。それでも構わず、叶向は彼女の手を引っ張って人混みの中を歩き続けた。

 やがて人の波が途切れた頃、ようやく叶向は足を止めて如月を振り返った。彼女は苦しそうに息をしながら手を振り解くと屈み込み、足をさする。


「もー。水無月、歩くの速いから足痛かったじゃん」


 彼女はぼやきながら、腰を屈めたまま周囲を見渡す。


「しかも、なんでこんな会場から離れたとこに……」

「――ここなら人もいないから」


 叶向は一つ深く息を吐いてから口を開いた。喉がカラカラで言葉が上手く出てこない。すると如月は短く笑った。


「たしかにいないけど、んー、でもここから花火ってちゃんと見えるのかな」

「さあ、知らない」


 叶向は言いながら彼女の髪に手を伸ばす。ふわりと触れたそれは柔らかい。


「水無月?」

「なんか、綿みたいなのついてた」

「ああ、さっき小野寺くんが取ろうとしてくれてたのに」


 彼女は言いながら身体を起こす。しかし叶向は彼女の頭から手を下ろさなかった。


「……なにしてんの?」

「頭を撫でてる」

「なんで?」

「――彼女の頭を撫でるのは彼女の特権だと思う」


 すると如月は吹き出すようにして笑った。


「それでさっきいきなり引っ張ったの? 小野寺くん、びっくりしてたじゃん。可哀想だよ、あんな感じ悪い態度とったら」

「どうでもいい」


 今、彼女から他の誰かのことなんて聞きたくはない。叶向は彼女の頭を撫でていた手を下ろして頬に添えた。すると如月は心配そうに「どうしたの?」と眉を寄せる。


「なにが」

「だって水無月、変」

「普通だよ」

「泣きそうな顔してるじゃん」

「してないよ」

「ウソだよ。してるって」

「してない」


 ただ無性に苛ついているだけだ。どうしようもなく腹が立っているだけ。

 そのとき、甲高い笛のような音がして真っ暗だった夜空に光の花が咲いた。パチパチと跳ねるような光のシャワーが暗闇の向こうに落ちていく。


「あ、すごい! ちゃんと見えるじゃん! ここって穴場かも」


 嬉しそうな声を上げて如月は夜空を見上げる。しかしその顔は嬉しそうでも、楽しそうでもない。さっきまでは小野寺に笑いかけていたのに。


「如月」

「ん?」

「来年はさ、一緒に浴衣着ようよ。わたしが如月の浴衣を選んであげる」


 彼女は目を見開く。そして困ったような笑みを浮かべて自分の浴衣に視線を落とした。


「これ、もしかして水無月の趣味じゃなかった? さっき初めて褒められたから嬉しかったんだけど――」

「わたしならもっと如月に似合うの選んであげられるから」

「そうなの?」

「うん。きっと、もっと可愛いよ」

「もっとって……。でも今日はわたし、ボロボロだし」


 恥ずかしそうに俯いて髪に手をやる彼女の姿に、叶向は笑みを浮かべる。


「可愛いよ、如月は」


 そう。自分と違って彼女は可愛い。だからきっと男と付き合っても可愛げがないと言われたりはしない。感情がないだの、冷たい女だの言われたりもしない。


 ――如月は、違うのかもしれない。


「水無月はきっと浴衣を着るとすごく綺麗だね。一番に見せてね。水無月の浴衣姿」


 嬉しそうに、そして恥ずかしそうに笑う彼女の笑みはさっき小野寺に向けていたものよりも輝いて見える。その彼女の表情に叶向の心は満たされ、同時によくわからない気持ちが生まれ始めていた。

 耳鳴りのような甲高い音のあと、一際大きく空気を震わせて真っ暗な空が色づく。


「如月」

「なに?」


 首を傾げた如月に顔を近づけ、その艶のある唇に軽くキスをする。彼女は驚いた様子で動きを止めた。再びドンッと鼓膜が響いて光の雨が落ちていった。


「こんなとこで何してんの……?」

「誰も見てないよ」

「でも――」


 まだ何か言おうとする彼女の背中に腕を回して抱きしめる。蒸し暑くて息苦しい空気の中、腕の中で感じる彼女の体温が心地良い。


「水無月? やっぱりなんか変だよ」

「付き合ってるなら普通じゃない?」


 変だと言いながらも嫌がらない。

 キスをしても怒らない。

 少しだけ身体を離して彼女の顔を覗き込んでみる。如月は恥ずかしそうに視線を泳がせていた。そんな彼女の様子に叶向は心から満足感を覚えて身体を離した。そして手を繋いで夜空を見上げる。


「……何か、悲しいことがあったの?」


 花火を見たいと言っていた彼女は、花火を見ようともせずにそんなことを言って水無月を心配している。

 何も悲しいことなんてない。ただ、自分が持つ如月に対する想いがほんの少し分かった気がしただけだ。それはとても醜くて、泣きたくなるほど虚しくて嫌気が差すもの。


 ――可哀想だね。


 きっと秋山の言葉は自分と如月、どっちにも向けられたもの。

 バラバラと空を彩っては落ちていく儚い光たちを見ても、今の叶向にはまったくそれが美しいとは思えなかった。

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