- 八月 -
花火
第12話
ジリジリと刺すような日差しに熱せられていた空気も、太陽が沈むと少しマシになった気がする。それでも湿気は多く不快な蒸し暑さは続いていた。その蒸し暑さにさらに熱を加えているのは、この駅から吐き出されてくる人の多さだろう。
叶向はコンビニの前で暑さにうんざりしながら人の流れを眺めていた。駅舎の階段近くに設置された大時計は午後七時半を示している。
「遅刻かな……」
小さくため息を吐きながら人混みの中に如月の姿を探すが見つからない。駅から出てくる人たちの中には浴衣姿の者もちらほら見えた。その誰もが楽しそうに浮かれた様子で同じ方角へと向かっていく。
叶向はしばらくそんな人々を冷めた気持ちで眺めてからスマホを確認した。すると、いつの間にか如月からメッセージが届いていた。
『ごめん! 電車混んでて一本後のに乗った!』
そして謝罪のスタンプが何個も連打されている。
『あと五分で来なかったから帰る』
送信するとすぐに既読がついた。
『電車に言ってよー』
泣き顔のスタンプ。叶向はフッと笑って如月とのトークルームを閉じる。そして目に入った名前に眉を寄せた。秋山美守。
――なにがしたいの? 叶向。
放課後の誰もいない教室で自席に座った彼女がそう言ったのは、あの公園で如月とキスしたところを見られてから一週間ほど経った頃だった。
「なにがって、なにが?」
「好きなの? あの子のこと」
秋山の席は窓際の真ん中。叶向の席は中央列の一番後ろ。微妙な距離。それでも二人とも席を立とうとはしない。
叶向はじっと彼女を見つめて「美守には関係なくない?」と笑みを浮かべる。すると彼女は「またその顔」とうんざりしたように言った。
「いいから、そういうの。あんたのそういう顔、もう見飽きた」
彼女の言葉には何も感情はない。本当に見飽きただけなのだろう。
秋山とは高校に入ってからずっと同じクラスだ。しかし同じグループで仲良くしていたわけではない。ただごく稀に、こうやって放課後の教室に二人だけ残っているときがあった。
叶向は一人になりたくて教室に残っているのに、いつまで待っても彼女は帰らない。やがて彼女も一人になりたかったのだと気づいたのは二年に進級した頃だった。
秋山は普段から少し変わった子だった。誰かと特に親しくなったりはしない。しかし、決して孤立しているわけでもない。
彼女は自分と似ている。
そう思ったのは僅かな間だけ。放課後の教室でポツポツと会話をしているうちに気づいたのだ。彼女は叶向とは正反対の人間である、と。
おそらくは秋山も同じことを思ったのだろう。だから何を話さなくとも彼女は叶向が求めているものに気づいている。
「――別に、好きじゃないよ」
彼女に笑みを向けたまま叶向は答えた。
「ふうん。でもキスするんだ?」
秋山は無表情に叶向を見ている。その言葉は決して叶向のことを非難しているわけではない。もちろん肯定しているわけでもない。ただ純粋に疑問に思っている。彼女はそういう人間なのだ。
「好きじゃなきゃ、キスしちゃいけないものなの?」
叶向が問うと彼女は「知らないけど」と興味なさそうに言って眉を寄せた。
「でも、叶向のやってることは気持ち悪いなって思うよ」
彼女の言葉は自分でも驚くほど素直に心に入ってくる。苛立つことも、反論しようとも思わない。叶向は軽く笑いながら「なんで?」と首を傾げた。
「男でダメだったから今度は女ってわけでしょ?」
「男とはキスしてないけど?」
「そういう問題じゃないでしょ。あんたのは」
秋山はじっと叶向を見つめると「あの子とだったら手に入りそうなわけ?」と静かに言った。ブンッと耳の奥で低く音が響いた。教室の電灯が切れかけているのかもしれない。
叶向は秋山を見返しながら「さあ」と笑みを浮かべたまま答える。すると深いため息が響いた。続いて聞こえたのは彼女が席を立つ音。
秋山は鞄を手にすると無言で叶向の方へ近づいてくる。そして「可哀想だね」と言葉を残して教室を出て行った。
叶向はぼんやりと主の姿がなくなった秋山の席を見つめる。
「可哀想、か……」
それは誰に対してだろう。叶向に対してか。それとも何も知らずに叶向に付き合わされている如月に対してだろうか。
スマホに表示された秋山の名前を見つめながらぼんやりと思う。そのとき「よかった! まだいた!」と慌てたような声が聞こえた。
我に返って顔を上げると、ちょうど駅舎から如月が走ってくるところだった。しかしその歩みは遅い。それもそのはずで、彼女は周囲の浮かれている者たち同様、浴衣姿だったのだ。
慣れない下駄で走れないのだろう。カラコロと盛大に音は響いているものの、なかなか叶向の元へは辿り着かない。叶向は思わず笑いながら「遅い!」と近づいてきた彼女に言った。
「だからゴメンって! 浴衣だと満員電車に乗るのしんどくて一本待ったんだけど」
「一本ずらしても同じだったんじゃないの?」
すると彼女は苦笑しながら「むしろさらに満員になってた」と答えた。そして息を整えてから浴衣の裾を直す。
浴衣の柄はなんだろう。花火か、あるいは何かの花の絵を崩したものなのか、よくわからない。しかし深い青色の布は如月の雰囲気にはあまり似合っていないような気がする。
「なんで浴衣?」
思わず問うと、彼女は「え、だってデートでしょ? 花火大会デート」と目を丸くして言った。
「だから浴衣?」
「そう。だって、ほら」
如月は困惑したように近くを歩くカップルに視線を向けた。その二人は男女ともに浴衣を着ている。
「そういうものなのかなって。むしろなんで水無月は私服なの?」
「持ってないし、浴衣」
「レンタルとかもあるのに」
「興味ない。めんどくさい。お金もない」
「えー、水無月も着ると思ってせっかく用意したのに。ダメ? これ」
少し悲しそうに呟いた如月がなんだか可愛く見えて叶向は微笑む。
「まあ、ダメじゃないけど。ちょっと着崩れてるから残念」
「……次はタクシーで来る」
「――次、か」
どうやら彼女は来年も叶向と花火大会に来るつもりのようだ。それは友達としてか、あるいは恋人としてか。
キスをしてみれば何かが変わるかもしれない。
そんな安易な思いつきでした行為に結局は何かを感じることもなく、未だ如月とは別れることもないまま今日もこうしてデートの真似事をしている。
如月はどうだったのだろう。やはり叶向と同じように何も感じることはなかったのだろうか。それとも来年も一緒に花火を見たいと思える程度には好意を抱いてくれたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを思っていると彼女が不思議そうに「なに?」と首を傾げた。叶向は首を横に振って「行こっか」と如月の手を握る。
「え、なんで手繋ぐの?」
なぜか戸惑う如月に叶向は「だって、ほら」と前方に視線を向ける。すると周囲のカップルたちは、そのほとんどが手を繋いで歩いていた。
「そういうものなんじゃないの?」
「……そっか」
「うん」
叶向は頷き、ゆっくりと足を踏み出す。きっと下駄で走ったりしたから足が痛いはずだ。別に急ぐ必要はない。今日は如月が花火を見たいと言ったから一緒に来ただけ。どこかで適当に花火が見られたらそれで良い。
何かを期待しているわけでもない。
きっと如月との関係はこれ以上変わったりしない。
――だからもう、キスだってしたりしない。
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