第32話
すっかり日が暮れた十九時過ぎ。ゆっくりとした足取りで一花はファストフード店へ向かっていた。
水無月が会社を出たのは三十分ほど前のこと。スマホには何も連絡はない。本当にファストフード店にいるのかどうかすらもわからない。
いらっしゃいませという声を聞き流しながらファストフード店の二階へ続く階段を上る。そして途中で立ち止まると一つ大きく深呼吸をしてから階段を上りきった。
フロアには高校生のグループがいた。制服姿で楽しそうに談笑している。そんな中、窓際のカウンター席に座っているのは一人だけ。一花はその場から動かず、微笑みながら彼女の背中を見つめた。
彼女の右隣の席にはトレイが置かれている。あのときも水無月が先に注文を済ませて席をとっていた。一花の席に自分が頼んだセットのトレイを置いて。そこに座る彼女の背中は昔と変わりない。一花のことを待つ、彼女の背中だ。
「お疲れ、水無月」
一花は足を踏み出し、声を掛けながら彼女の隣に座った。水無月はカウンターに頬杖をついて「遅い」と微笑む。
「ポテト冷めちゃったよ」
「いいよ、別に。どうせすぐに食べるつもりじゃなかったし」
一花の言葉に水無月は不思議そうな表情を浮かべた。一花はそれには答えず、トレイを見ながら「先に食べてくれても良かったのに」と続けた。すると水無月は「あのとき、わたしが先に食べてたら如月怒ったでしょ」と頬杖をやめる。
「えー、そうだったかなぁ」
一花は笑って言いながら水無月のポテトに手を伸ばした。それに気づいた彼女はそっとトレイ同士をくっつけるようにして一花のポテトに手を伸ばす。あのときのように。
一花はポテトを食べながら彼女が頼んでくれたセットメニューを眺める。
「……合格?」
ふいに水無月が笑みを浮かべて首を傾げた。一花は「まあ、合格かな」とカウンターの上に置かれた水無月の手に触れる。彼女は驚いた様子も見せず、素直に指を絡めてくる。
「……これはやらなかったよね」
水無月がドリンクを一口飲んで言う。
「そりゃ、これは今のわたしたちのデートだからね」
「そっか」
彼女は嬉しそうに微笑むとドリンクのカップを置いた。ジャラッとカップの中の氷が崩れたように鳴る。水無月は絡めた指に少し力を入れると「職場の誰かに見られちゃうかもよ?」といたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「金曜日の夜、仕事終わりに会社近くのファストフードで夕飯を食べる大人なんていると思う?」
「いるじゃん、ここに」
「いるね」
一花と水無月は同時に声を上げて笑う。そして窓から見える街並みを眺めた。商店街の灯りはクリスマスバージョンなのか、妙に煌びやかだ。
「――よくとれたね。この席」
「ん?」
「この時間帯、高校生もいるのに」
「先客はいたけどね。ずっと後ろに立って待ってたらどいてくれた」
「……怖っ」
「如月との約束を守れない方が怖い」
水無月はキッパリとそう言った。一花は「ふうん」と笑みを浮かべてポテトを一本つまむ。
「ハンバーガーは食べないの?」
水無月の問いに一花は「夜は長いからね」と答えると窓の外に見えるファストフード店の看板へ視線を向けた。その看板には二十四時間営業の文字。水無月は一花の視線を追うと「――如月」と口を開いた。
「ん?」
「何時までここにいるつもり?」
彼女は苦笑しながら一花に視線を戻した。
「店員さんに注意されるまで、かな」
「注意されなかったら朝までオール?」
「明日は休みだしね」
すると彼女は声を上げて笑い、嬉しそうに一花のことを見つめてくる。
一花は目の前のトレイに視線を向ける。ハンバーガー、ポテト、ドリンク。あのときはこれを食べたらすぐに帰ってしまった。たいした会話もしないまま。だから今度は……。
「一緒にいようよ。今日はずっと」
「ずっと?」
「うん。いっぱい水無月のこと知りたい。教えてくれる?」
すると彼女は一瞬迷ったような表情を浮かべた。そして「いいよ」と柔らかく微笑む。その表情にほんの少し引っかかるものを感じてしまう。
「んー、何から話そうかな」
ポツポツと自身のことを話し始めた彼女の表情は穏やかだ。一花は話を聞きながら水無月の手をギュッと握る。それに応えるように彼女も絡めた指に力を込めた。
――今は、まだ新しく始まったばかり。
一花は彼女の手を握りながら思う。いきなり何もかも打ち解けることができるわけもない。これから少しずつ前へ進んで行けばいい。
「聞いてる? 如月」
ふいに水無月が不満そうに一花へ顔を向けた。一花は頷く。
「聞いてるよ。あ、言っとくけど秋山さんとイチャついた話は聞きたくないからね?」
「大丈夫。そんな話はない」
彼女は苦笑すると、言葉を探すようにしながら話を続けた。その間も彼女は強く一花の手を握ったままだ。それはまるで必死に何かを放すまいとしているかのようだった。
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