やりなおし

第31話

 年末の追い込みが始まった十二月後半。会議室では週末ミーティングが行われていた。一花は報告された懸案事項をまとめながら視線を水無月へ向ける。彼女は無表情に報告を聞いていた。いつも通りに。


 ――もう終わらせるつもりだったのに。


 電話で彼女の気持ちを聞いてから一ヶ月と少し。一花は何も返事をしていないままだ。職場でも必要なこと以外は喋らない。メッセージもあのデートの日から一度も送ってはいなかった。そして水無月からもメッセージは届かない。

 二人のトークルームは止まったままだ。


 ――ちゃんと、か。


 一花はキーを打ちながら考える。彼女は言った。昔のような遊び半分の関係ではなく、ちゃんと付き合いたい、と。

 一花にとっては高校時代の水無月との関係だって遊び半分ではなかった。特別なものだったのだ。

 水無月のことをもっと知りたい。

 彼女に対する自分の気持ちが知りたい。

 だから彼女のそばにいたい。

 彼女の笑顔を見ていたい。

 そう思っていたのに彼女は言った。一花がそばにいると変になると。だからあの日、彼女は自ら嫌われるために一花に触れようとしたのかと思っていた。しかしどうやら違ったらしい。

 あれが今でも変わらない彼女の本当の気持ち。決して一花のことを嫌っていたわけではなかったのだ。


 ――それで秋山さんは。


 ようやく一花は理解した。今も昔も一花の言動が水無月を傷つけていると言った秋山の言葉。それは一花が自分の気持ちだけで水無月のことを考えていたからだ。

 自分がいるせいで水無月が苦しむのなら水無月と距離を置けばいい。そんな浅はかな考えから、ちょうどタイミング良く告白してきた小野寺と付き合うことにした。それで水無月に笑顔が戻るのならかまわない。そう思っていたのに。

 一花は再び視線だけを水無月に向ける。彼女は澄ました表情でノートパソコンに何か打ち込んでいるようだった。そんな彼女の表情は穏やかだ。

 それは高校時代、図書館裏の公園で一花に寄りかかってきた彼女の表情にとてもよく似ていた。


「では、仕事納めまでに解決できる懸案は各自対応するように。来年に持ち越しになるものは対応時期を明記して報告してください」


 ふいに聞こえた坂田の声に一花は我に返る。気づくと会議はすでに終わっていた。それぞれ席を立って会議室から出て行っている。


「如月。その懸案ファイルは共有設定にして作業フォルダに入れといて。みんな、それに入力していくから」

「え、あ、はい……」


 ――どうしよう。


 坂田に返事をしながら心の中で焦る。途中からほとんど会議の内容を聞いていなかった。当然、その間に出た懸案もまとめられていない。

 会議室から全員が出て行ったあとも一花は焦りながら手元を見つめていた。

 いや、焦ったところでどうしようもない。素直に坂田に謝って、そしてもう一度みんなに聞いて回るしかない。これでまた自分の評価が下がってしまうだろうが自業自得だ。

 一花はため息を吐いて顔を上げる。そして「え……」と思わず声を漏らした。誰もいなくなったと思っていた会議室。しかし向かいの席には、まだノートパソコンを広げて座っている女性が一人。


「――水無月?」


 名前を呼ぶと彼女は澄ました表情のままノートパソコンを手にして席を立った。そして一花の隣に座ると自分のノートパソコンを一花のものと並べて置く。


「えっと……。メモ書きだけど、良かったら」


 彼女は迷うように口ごもりながらそう言った。見ると、彼女のノートパソコンにはメモアプリに懸案事項や会議内容の要点が箇条書きされている。それはまるで議事録の下書きのようだった。


「え、なんで。だってこれ、水無月がやることじゃないでしょ」

「まあ、なんとなく……。必要ないようだったら別にいいんだけど」


 彼女は困ったように笑ってパソコンを閉じようと手を伸ばす。その手を一花は「待って!」と慌てて掴んだ。


「いる。必要。めっちゃ必要」

「だと思った」


 水無月はフッと笑うと手を下ろす。


「なに? だと思ったって……」

「だって如月、途中からぼんやりしてたから」

「――誰のせいだと思ってんの」


 一花は小声で呟きながら水無月のメモから懸案事項だけを抜き出して一覧に追加していく。

 静かな会議室にはカタカタとキーボードの音だけが響いている。居心地が悪い。横目で見ると、彼女はじっと一花のことを見つめていた。


「……あんまり見られるとやりづらいんだけど」

「ごめん」

「いや、別に謝るほどのことでもないけど」

「ぼんやりしてたのって、わたしのせいなんでしょ」


 水無月の言葉に一花は手を止めた。そして小さく「まあ、うん」と頷く。


「困らせてるよね」

「うん。困ってる」

「そっか」


 それきり水無月は黙り込んでしまった。一花は再びキーを打ち始める。


 ――ああ、嫌だな。


 この沈黙が嫌だ。水無月がこんな風に黙り込んでしまうのが嫌だ。こんな気まずい雰囲気を作りたくないのに。


「もし、わたしのことがもう嫌だったら――」

「嫌」


 彼女の言葉を一花は遮った。水無月は驚いたように目を見開き「そう、だよね……」と力なく項垂れる。一花はすべての項目を打ち込み終えてから水無月へ顔を向けた。


「嫌だよ。そんな水無月は」


 彼女は心細そうに眉を寄せている。そんな彼女を見つめて一花は微笑む。


「わたしに嫌われるはずだって、そう思ってる水無月が嫌」

「え……」

「そうやってわたしの気持ちを勝手に決めてる水無月が嫌」

「でも、聞いたでしょ? わたしは如月とさ――」

「好きじゃないけどしたいって?」


 水無月は大きく目を見開いてドアの方へ視線を向けた。


「……ここ、職場だよ。如月」

「誰もいないから平気。盗聴器だってないよ。多分」

「多分って」


 不安そうな様子で水無月は左右に視線を向ける。一花は「大丈夫だよ」と微笑んだ。


「いや、大丈夫かもしれないけど――」

「わたしは水無月のことを嫌いになったりしないから大丈夫。そんなことで嫌いにならない」


 言いながら一花はテーブルに置かれていた水無月の手に自分の手を重ねた。水無月は戸惑ったように一花を見てくるが、その手を払いのけようとはしなかった。


「……如月、嫌じゃないの?」

「嫌じゃない」

「でも困ってるって」

「困ってる。ちゃんと付き合うってどうしたらいいのかわからなくて、すごく困ってる」


 一花は水無月の手を握った。彼女の手は冷たい。

 水無月は一花の手を見つめ、そしてようやく理解したように「それって……?」と顔を上げた。

 一花は答えず、ただ笑みを彼女に向ける。そして「あ、でもね」と彼女の指に自分の指を絡めながら付け加える。


「水無月のこと嫌いじゃないけど、嫌なことはある」

「え、なに?」

「秋山さん」


 彼女の手に力が入った。水無月は「やっぱり、美守のことが嫌なの?」と視線を俯かせる。


「うん。だからさ、もう秋山さんとは……」


 一花が言葉を止めると彼女は不安そうに顔を上げた。一花は少し身体を寄せて彼女の耳元に口を寄せる。


「一緒に寝ないで欲しい」


 そう囁くと、水無月は呆然とした様子で動きを止めた。そして深く息を吐き出す。おそらく一花が別のことを言い出すのではないかと思ったのだろう。彼女は息を吐きながら乾いた声で笑い出す。


「寝ないよ。もう、そんなことはしない」

「当然だよ。だって水無月と付き合ってるのはわたしだからね」


 しかし水無月は答えず、ただ不安そうに一花を見てくる。


「わたしは水無月なら嫌じゃないよ。あのときだって嫌じゃなかった」

「じゃあ、なんで……」


 言って彼女は視線を逸らし、俯いた。


「なに?」


 一花は問う。すると彼女は「なんで、小野寺と付き合ったの」と消え入りそうな声で言った。


「あのとき付き合ってたのは、わたしだったはずなのに」


 どこかで聞いたことのある言葉だ。一花は少し考えてから、あのデートの日に自分が言った言葉だと思い出す。


 ――そっか。


 あのときの水無月は、きっとあんな思いをしていたのか。あんなに悲しくて苦しくて、そして腹が立つような思いを。だから彼女は……。


「水無月が言ったんだよ」


 一花は当時のことを思い出しながら答える。


「わたしといると変になるって。だからだよ」

「だから……?」

「そう。あれは水無月の為だった」


 ただし、一花が勝手に決めつけた押しつけがましい『水無月の為』だ。

 水無月は何も言わず、ただギュッと一花の手を握る。そのとき、ふいに会議室のドアが開いた。反射的に二人はバッと手を離す。


「なんだ、まだここにいたのか」


 そう言って顔を覗かせたのは坂田だ。彼は二人を見ると怪訝そうな顔をしてから「如月」とその視線を一花に向けた。


「は、はい?」

「みんな、ファイルを待ってるんだが?」

「あっ! はい! すみません。いま上げます。すぐに!」

「それと、早く席に戻って仕事してくださいよ?」


 彼はそう言うとドアを閉めて出て行った。一花と水無月は顔を見合わせ、そしてどちらからともなく笑い出す。


「あー、よし。仕事しよっか」


 笑いを残したまま、一花はファイルをアップロードしてノートパソコンを閉じる。


「そうだね」


 答えながら同じようにノートパソコンを閉じる水無月は、しかしまだ不安そうだ。一花はそんな彼女を見つめて「……ちゃんとってさ、どうやるの」と訊ねた。立ち上がりかけていた水無月は「え?」と首を傾げる。


「どうって……」

「ちゃんと付き合うって、まずは何をするものなの? キス?」

「違うと思う」

「違うんだ?」

「違うよ。普通はやっぱり、デートなんじゃない?」


 水無月は眉を寄せながら言った。


「ちゃんとしたデート?」

「そう。ちゃんとしたデート」

「ふうん」


 一花は少し考えてから「じゃ、やろうよ。今日」と言った。


「今日?」


 目を丸くする彼女に一花は笑って「うん。今日」と頷く。


「どこにしようかな。疲れてるから近いところで、給料日前だから安く済むところがいいな」

「えー、そんなデートある?」


 水無月は苦笑しながらも「あ、だったらあそこがいいんじゃないかな」と言った。


「どこ?」

「この会社の近くにあるファストフードのお店」

「……そこって」

「行こうよ」


 言いながら彼女は一花の手を握った。


「ちゃんと、やり直そう? 初めてのデート」


 彼女の手はもう冷たくはない。柔らかくて温かな手は昔から知っている水無月の手。一花は笑って「わかった」と頷いた。そして二人で見つめ合い、笑みを浮かべる。


「仕事しよっか」

「そうだね」

「手、放してくれないと部屋から出られないよ?」

「そうだね」


 しかし水無月は手を放そうとはしない。むしろ逆に強く一花の手を握ってくる。


「水無月?」

「一緒に行く? ファストフードのお店」


 まるで何かを怖がっている子供のような表情で彼女は言った。一花は「それはちょっと無理かな」と苦笑する。そして少し考えてから続けた。


「じゃあ、こうしよう。先に退勤した方が店に行って席をとる。昔と同じ席じゃないとダメだからね」

「二階のカウンター?」

「そう。ちゃんとまったく同じ席で、二人があのとき頼んだのと同じセットを頼んで待ってること」

「……それ、わたしが先に退勤するってわかってて言ってるよね?」

「言ってる」


 一花が頷くと水無月は吹き出すようにして笑った。そして「わかった」と手を放す。


「ちゃんと待ってる」

「何か一つでも間違ってたら、わたし帰るからね」

「うん。いいよ」


 水無月は頷くと少し名残惜しそうな表情を見せながらも会議室から出て行った。


 ――ほんとに覚えてるのかな。


 今まで一花は忘れたことがなかった初めてのデートの場所。一花にとっては大切な思い出の場所。しかし水無月にとっては日常の一コマに過ぎない出来事だろうと勝手に思っていた。

 もし水無月が何かを間違えていたら、きっと彼女はまた自分を責めてしまうのだろう。一花に嫌われるのではないかと彼女らしくない表情を見せて。


「――わたし、ズルい奴だな」


 まるで水無月を試すようなことをしている。

 新しい関係を築きたいと言っている彼女に、昔の関係で築いた思い出を捨てるなと言っている。

 それでも高校時代の思い出を捨てることはできない。あの頃の思い出はとても大切なものなのだから。

 一花はため息を吐くと会議室の電気を消してドアを開けた。

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