第30話

 皺一つないそれは叶向が目の前に置いているものと同じ、進路調査票だった。


「なんで美守も持ってんの」

「わたしも期限延ばしてもらってた。で、これがわたしが行く大学」


 言いながら彼女が指差した箇所には県外にある国立大学の名前が書かれていた。叶向は不思議に思いながら秋山を見つめる。彼女は用紙に視線を向けたまま「別に、特に意味はないけど」と淡々とした口調で言う。


「県外でもいいんじゃないのっていう提案」

「提案……」

「そう。あの子と離れたいんだったら地元から出た方がいいよ。あの子、どうせ近場の大学に行くんでしょ?」


 叶向は苦笑する。


「どうせって言い方はひどいよ。如月だって色々と考えてるんだから」

「そう?」

「たぶん」


 すると秋山は「ま、それこそ本気でどうでもいいけど」と言ってから叶向の用紙を指でトントンと叩いた。


「早く書けば?」


 叶向は首を傾げる。


「美守と同じとこ?」

「行きたい大学でもあるわけ?」

「ない」

「だったらいいじゃん。同じところにしなよ」


 彼女の言葉は相変わらず淡々としていて、しかしどこか温かいものを感じる。叶向は笑って「さては美守、わたしが好きだな?」と聞いてみる。すると彼女は心から嫌そうに顔をしかめた。


「あんたみたいな面倒くさい女は死んでもお断り」

「そっか、残念……」


 叶向は言いながら如月の席に視線を向ける。


「如月も、そうだったのかな」

「そうなんじゃない? だってあんたがやってること意味わかんなかったし」

「――わたしだって意味わかんないよ」


 ぼんやりと如月の席を見つめながら呟く。

 如月と話をしたい。

 謝りたい。

 そして自分たちの関係のことをはっきりさせたい。しかし、そんな勇気が自分にはない。

 如月に嫌われるのが怖い。

 嫌われたくない。

 それはどうしてだろう。

 今まで友人に嫌われたところで何も思わなかった。それまでの関係だったのだとすぐに諦めがついた。それなのに、どうして如月だけが……。


 ――違う。如月だったからか。


 如月が自分と似ていたから。如月といるときだけは本当の自分でいられるような気がしたから。如月はどんな叶向でも受け入れてくれたから。

 彼女のような存在には今まで出会ったことはなかった。だから嫌われたくなかったのか。彼女といることで自分の存在を確かめることができた。彼女だけが水無月叶向という人間を理解してくれる。そう思ったから。


「あんたのそれは恋愛感情じゃないの?」


 秋山の言葉に叶向はビクッと肩を震わす。秋山は何かを確かめるように叶向を見つながら続けた。


「あんたはあの子のことが好きなんじゃないの?」


 叶向は彼女を見返して微笑む。


「違うと思うよ。これは、ただの……」

「ただの?」


 叶向は少し考えてから首を横に振った。そして「でも、いいの?」とシャーペンを取り出してニヤリと笑みを浮かべる。


「同じ大学に行ったら、このめんどくさい女とさらに四年も一緒にいることになるよ?」

「いいよ」


 予想外に素直な答えに叶向は「え……」と目を見開く。彼女の表情は今まで見たこともないほど穏やかだった。


「もう三年もめんどくさいあんたを見てきたわけだし」

「……大学に入ってからもわたし、女の子と付き合ったりするかもよ?」

「それならそれでいいんじゃない? あの子のこと吹っ切れるなら」


 秋山の言葉に叶向は少し考えてから「吹っ切るも何もないと思うけど」と笑みを浮かべた。


「別にわたしと如月はなんでもない関係だったんだから」

「付き合ってたのに?」

「あれはごっこ遊び。それも、もうおしまい」


 そう答えた叶向を見つめ、秋山は「やっぱり」とため息交じりに言った。


「あんたはわたしといるべきだよ」

「は?」

「めんどくさいあんたの相手は、わたしくらいあんたに興味がない人間じゃないと務まらないと思う」


 叶向は眉を寄せた。


「意味わかんないんだけど」

「いいから早く書いて。わたしそろそろ帰りたいから」

「ひどくない……?」


 苦笑しながらも叶向は美守の希望している大学と学部を書き写していく。


「ま、これであんたが落ちたらどうしようもないけど」

「それはこっちの台詞。美守、成績良いんだっけ?」

「友達の成績くらい把握しておいてほしい」


 それを聞いて叶向は目を丸くしながら顔を上げた。


「なに」


 秋山は居心地悪そうに視線を泳がせる。


「友達って言った? いま」

「……書いた? じゃあ、もう帰る」


 彼女はぶっきらぼうにそう言うと用紙を掴み、逃げるように教室から出て行った。教室に残された叶向は吹き出すようにして笑う。


「めんどくさいのはそっちじゃん」


 笑いながら呟き、そして深く息を吐き出して椅子の背にもたれた。


「友達、か……」


 秋山は何も求めない人間なのだと思っていた。自分とは正反対の、すべてを受け入れて何も求めないことを決めた人間。

 そんな彼女が最近になって読み出した小説は彼女が何かを求め始めた証拠だったのかもしれない。そして彼女が求めたのは友達。


 叶向という、友達。


 恋愛小説は、きっと叶向が求めるものがどんなものなのか知ろうとしていたのだろう。

 如月とも最初からそういう関係で留まっておけばよかった。彼女に触れたりしなければよかった。そうすればこんな気持ちを手に入れることだってなかったかもしれない。


「――如月、どこの大学に行くのかな」


 用紙に書いた大学名を指でなぞる。そしてため息を吐くとそれを机の中に入れて帰宅の準備を始めた。暖房が切れた教室は少しずつ冬の空気に支配されていくように冷たくなっていた。

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