- 七月 -

空虚な視線

第8話

 少し籠もったような独特の匂いと冷たい空気に包まれた静かな空間。周囲に視線を向けると来館者は多い。日曜だからだろうか。それとも試験期間中のせいか。

 落ち着いた雰囲気の図書館の学習室で、一花はソワソワしながら視線を巡らせていた。


「如月、挙動不審。怪しい」


 小さな声に視線を向けると、隣の席に座った水無月が頬杖をついてつまらなさそうにノートへ視線を落としていた。


「なんか落ち着かなくて」

「図書館が? 勉強が?」

「どっちもプラス水無月が隣にいることが」


 すると水無月は頬杖をついたままクッと笑った。


「なんでよ。学校でも隣にいるでしょ」

「誰もいないところではね」


 水無月は視線を一花に向けると「デートだってしてるじゃん」と頬杖をやめて椅子の背にもたれた。


「なんで二人でいるときはそうでもなくて、こういう場所ではソワソワしてんのか理解できないんだけど」


 言いながら彼女は首を傾げる。一花は深くため息を吐いた。


「知り合いに見られる可能性が高いでしょ、ここ」


 図書館の学習室。普段ならば高校生が集まるような場所ではないこの場所も試験期間中は別である。今のところ見覚えのある顔はいないが、それでも館内のどこかに知り合いがいる可能性は高い。


「それの何がダメなの。いいじゃん、別に見られても」


 水無月は言いながら一花のすぐ近くに顔を寄せて「別にイチャついてるわけでもないし」と小声で囁いた。一花が驚いて身を逸らすと、その反動で机からバサッと教科書が落ちた。部屋中の視線が二人へと向けられる。

 一花は慌てて教科書を拾い上げると首を竦ませて「水無月……」と彼女を睨みつけた。水無月は面白そうに笑いながら「さ、続き続き」と再びノートに視線を向けた。一花は深くため息を吐いて彼女の横顔を見つめる。

 付き合おう。そう言った彼女の言葉の真意が未だにわからない。実際、今の状態が付き合っていると言えるのかと問われれば違うと答えるだろう。ただ以前より一緒にいる時間が増え、以前よりも水無月の隣にいることに居心地の良さを感じていることは確かだ。

 彼女と一緒にいると安心する。

 彼女と一緒にいると不思議と嬉しくなる。


 しかし、それだけだ。


 この関係は友人関係とは違う。恋愛関係かと問われるとそういうわけでもない。水無月との距離は縮まったようで縮まっていない。


 ――この関係は何なんだろう。


 そのとき水無月が小さく息を吐いて「やめた」とノートと教科書を片付け始めた。


「え、いきなり? てか、まだ来てから三十分くらいだよ?」


 驚いて訊ねると彼女は「如月、まったく勉強する気がないみたいだから」と呆れた表情を浮かべる。


「如月が勉強教えてくれって言うから来てるのにさ」

「それは……。すみません」


 返す言葉もなく謝る。そうなのだ。水無月はどういうわけか成績が良い。元々の頭の出来が違うのかもしれない。だからおそらくはわざわざ図書館で勉強する必要はない。必要があるのは一花の方である。中間試験の成績は散々だった。そこで水無月に泣きついて勉強を教えてもらおうと思ったのだが、この有様である。


「ま、成績悪くて困るのはわたしじゃないから別にいいけど」


 彼女は言いながら鞄を手に立ち上がると「じゃ、お先」と学習室を出て行ってしまった。


「え、ちょっ……」


 慌てて一花も荷物を片付けて水無月の後を追う。しかし水無月は図書館を出てからも歩調を緩めることなく歩き続けた。


「待ってよ、ねえ。水無月」


 一花が呼びかけても彼女は止まってくれない。


「水無月ってば! 何か怒ってるの?」


 彼女の後を追いかけながら訊ねる。図書館で冷やされていた身体は湿気を帯びた夏の空気によって一気に温められ、汗が噴き出してくる。一花は手の甲で汗を拭いながら「いや、怒ってるのかもしれないけどさ! ごめんって!」と答えない彼女の背中にさらに声をかけた。

 水無月は図書館の裏手の道を歩き続け、やがて小さな公園に入ったところで足を止めた。そこは緑に覆われた小さな児童公園。

 手入れはされているが生い茂った木々たちのせいで薄暗く、普段から遊ぶ者は少ない公園だった。しかし、その木々たちのおかげだろうか。公園内の空気はほんの少し冷たくて緑の香りが心地良い。


「別に怒ってないって」


 ようやく口を開いた彼女は振り向いて微笑むとベンチに腰を下ろした。一花はその前に立って彼女を見つめる。


「怒ってないのにわたしを無視して歩いて行っちゃうんだ?」

「ちょっと考え事してた」

「……何を?」

「もう一ヶ月くらい過ぎたのに、振られてないなって」


 彼女は真面目な表情でそう言った。一花は彼女を見つめ、ため息を吐いて隣に腰を下ろす。


「どっちが? わたしが? それとも水無月?」

「どっちも」


 水無月は一花を見ると「なんでだろう?」と首を傾げた。その表情は冗談を言っているわけでも一花をからかおうとしているわけでもなさそうだ。彼女は時々こんな表情でよくわからない疑問を口にする。心から不思議そうに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る