第9話

 一花は子供のような表情を浮かべる水無月を見つめながら「そもそも、付き合ってるかどうか怪しいからじゃない?」と答えた。


「怪しい?」

「デートって言ってもさ、別にいつも友達と遊びに行くのと何も変わらなかったじゃん。学校でも今までと変わりないし。振る、振られるの要素がないんだよ。多分」

「……つまり、如月はわたしのことを好きでも嫌いでもない?」

「友達と一緒」

「ふうん」


 彼女は呟くと視線を上向かせ、少し眩しそうに目を細めた。


「……水無月はそうじゃないの?」

「さあ。よくわかんない」

「なにそれ。水無月の方から言ったのに。付き合おうって」

「まあ、言ったけど」

「なんで?」

「面白そうだったから」

「からかう気しかなかった、と」


 一花が言うと水無月は乾いた声で笑った。そうだとも、違うとも言わない。代わりに「でもさー」と言った。


「女同士で付き合うって何したらいいのかよくわかんないね」


 そのときふいに脳裏に浮かんだのは、彼女が男子と並んで歩いている光景だった。見たことはない。ただの想像だ。それでも水無月が付き合っている相手が一花ではなく男子であるのならばしっくりくる。だってそれが普通だ。しかし、それがなんだか無性に腹立たしい。

 一花は彼女の横顔を見つめながら「彼氏とは?」と聞いていた。水無月は不思議そうに一花へ視線を向ける。


「二週間で別れた元彼とはどんなことしてたの?」

「どれのこと?」

「……どれでもいいよ。水無月が誰と付き合ってたかなんて知らないし」


 ――知りたいとも思わない。


 よく分からない苛立ちを胸に抱えたまま、そんなことを思う。できれば彼女がその誰かとどんなことをしていたのかなんて知りたくはない。そう思うと同時に知りたいと思う自分もいる。そんな矛盾した自分の気持ちに苛立ちは増していく。


「如月、なんか怒ってんの? 顔怖いんだけど」

「いいから。どんなことしてたの?」

「知ってどうす――」


 言いかけてから彼女は「なるほど」と頷いた。


「同じようなことをすれば付き合ってるってことになるかもしれないってことか。で、振られるかも」

「なんで振られる前提で……」


 一花は左手に感じた温もりに思わず口を閉じた。視線を向けると水無月の右手が触れている。


「……水無月?」

「ん?」

「なにしてんの」

「だから、同じようなこと?」


 水無月の細い指が絡んでくる。温かくて柔らかく、そして少しくすぐったい感覚に一花は戸惑いながら水無月に視線を向ける。彼女は薄く笑みを浮かべて一花のことを見ていた。その笑みはいつも一花をからかってくるときと同じような笑み。しかし、その瞳の奥に込められた感情はどこかいつもと違うように思える。

 そこにあるのは仄かに強い、何かの感情。


「――水無月?」


 なんとなく不安になって彼女の名を呼ぶ。しかし彼女は答えない。ふわりと湿気を帯びた風が吹き抜けていく。それに乗って香ってきたのは彼女が使っているシャンプーの香りだ。

 そうわかったのは、すぐ目の前に水無月の強い瞳が迫ってきたからだった。そして次の瞬間、唇には柔らかな感触があった。


「え――」


 ほんの一瞬だけ触れたものが何だったのかわからず、一花は思わず声を漏らす。その唇を、今度はぺろりと温かな何かが舐めた。


「変な顔」


 すぐ目の前で水無月が微かに息を吐いて笑う。近づきすぎた二人の体温によって、このベンチの周りだけ気温が急上昇しているような気がする。

 その熱を感じながら一花はいつもと変わらぬ笑みを浮かべる水無月を呆然と見つめていた。彼女は自分の唇を舐めながら身体を離すと「どう?」と首を傾げた。


「……今、何したの」

「ん、キスだけど?」


 何でもないことのように彼女は言う。


「なんで?」

「だから、同じようなことだってば。付き合ってるとこういうことするでしょ?」

「――したの?」


 呆然としたまま一花は問う。


「元彼と、こういうこと」

「向こうはしたがってたんだよね。まあ、それで別れたんだけど」


 したがっていた、ということはしたのだろうか。それともしなかったのだろうか。だから別れたということは、そういうことを水無月はしたくなかったのか。だったらなぜ今、自分にそんなことをしてきたのだ。

 彼女の返答に、驚きで忘れていた苛立ちが蘇ってくる。そんな一花の気持ちを逆撫でするかのように彼女はニヤリと笑った。


「で、どう? わたしと別れたくなった?」


 指を絡めて繋いだ手を放そうともせず、彼女は笑いながらそんなことを聞いてくる。


「……なんで?」


 一花はまっすぐに彼女を見つめながら聞いた。すると水無月は「え、なんでって」と困ったように眉を寄せる。


「嫌じゃなかったの?」


 ――わからない。


 水無月の気持ちがわからない。

 初めてのキスに何も感じなかった自分の気持ちもよくわからない。

 そして、水無月に対する苛立ちの理由もよくわからない。

 ただ水無月が自分以外の誰かとこういうことをしていたのだとしたら、それが堪らなく嫌で仕方がない。


「如月? 怒った?」


 不安そうな表情で繋いだ手に力を込める水無月は一体何を求めているのだろう。


「わからない」


 ――やっぱり何もわからない。だから。


「もう一回、して?」


 まっすぐに彼女を見つめたまま言う。水無月は驚いたように目を見開いたが、すぐに「いいよ」と表情を和らげて身体を近づけてくる。

 ゆっくりと瞼を閉じる彼女を見て一花も同じように目を閉じた。そして唇に優しく押し当てられる、微かに湿った彼女の唇。

 さっきより少し長いキスからは今までよりも近く彼女の存在を感じることができた。学校で一緒にいるときよりも、二人で出掛けているときよりも強く。そしてそれは彼女の吐息と共にあっけなく離れていった。

 一花は瞼を開ける。水無月はさっきと変わらぬ笑みで一花のことを見ていた。


「どう? もっかいする?」


 ニヤリと笑った彼女は視線を一花の肩越しに向ける。その瞬間、その表情がスッと消えた。不思議に思って振り返るとそこには見覚えのある少女が立っていた。


「……美守」


 水無月が呟く。そこにいたのはクラスメイトの秋山美守。彼女は驚いた様子もなく、ただ無表情に一花たちを見つめると「なにやってんの」と呆れたように水無月へと視線を向けた。


「今度は女相手? 見境無しにも程がある。気持ち悪いよ、叶向」


 淡々とした口調で彼女はそう言うと公園を横切って去って行った。生ぬるい風が彼女を追いかけるように吹き抜けていく。


「水無月、追いかけないと!」


 我に返って慌てて立ち上がった一花だったが、水無月は「いいよ、別に」と繋いだ手を引っ張って一花を再びベンチに座らせた。


「よくない! 今の見られたんだよ? それに水無月にあんなひどいこと……。ちゃんと説明しないと!」


 何をどう説明すれば理解してもらえるのかわからない。それでもこのまま放っておくときっと変な噂が広まってしまう。しかし水無月は穏やかな笑みを浮かべて「いいってば。もうちょっと、まったりしていこうよ」と一花の肩に寄りかかってきた。まったく慌てた様子もない。むしろ、どこか安心しているようにすら見える。

 一花は困惑しながら自分に寄りかかる水無月の横顔を見つめた。


「大丈夫。もうキスしないから」


 ――わからない。


 水無月が何を考えているのかわからない。

 水無月は自分と同じ。

 そう思っていたのに。

 彼女の空虚な視線は、秋山が出て行った公園の出口へと向けられていた。

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