想い
第10話
知らない間に梅雨に入り、知らない間に明けていた七月も後半。叶向は違和感を覚えながら仕事を進めていた。
最近、如月の様子がおかしいのだ。
いや、おかしいと判断できるほど今の如月を知っているわけではない。しかし再会してから一ヶ月あまりの間、如月は高校時代と変わらない雰囲気で叶向に接してくれていた。叶向がいくら冷たく応じようともだ。
それが先月くらいから会話がどこかぎこちない。目を合わせようともしてこない。その様子が気になって叶向から話題を振ってみても、どこか無理したような笑みを浮かべるだけで、すぐに会話を終えてしまう。
その関係は叶向がこの職場に来てからずっと望んでいたものだったはず。もう彼女とは深く関わらないようにしよう。そう決めていたのだから。
しかし、いざ彼女から距離を置かれるとモヤモヤしてしまう。
嫌な気持ちが沸き上がってくる。
そんな自分の気持ちに苛立ち、そのせいで仕事に集中もできない。しかし何かあったのかと気軽に聞くこともできない。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま今日もまた終業のチャイムが鳴ってしまった。いまのところ叶向が担当している作業は落ち着いているので残業をする理由はない。叶向はパソコンの電源を落としながら横目で如月を見た。
彼女はぼんやりとした様子でモニタを見つめている。ここ十分ほど、キーボードに置かれた指は動いていない。
「……如月さん」
声を掛けると彼女はビクリと肩を震わせた。叶向は眉を寄せて「あ、すみません」と謝る。
「驚かせてしまいましたか」
「ああ、いえ。こちらこそごめんなさい。ぼんやりしてて……。えっと、どうされました?」
彼女は引き攣った笑みを叶向に向ける。その視線は俯いたままだ。
――何かあったの?
「――今日は、もう上がらせていただきます」
心の声を口に出せるわけもなく、叶向はそう言うと荷物を鞄に押し込んだ。如月は「ああ、はい。お疲れ様でした」とモニタへ視線を戻す。その横顔は緊張しているように見える。
「……お疲れ様でした」
呟くように言って叶向はフロアを後にした。
会社を出て、まだ明るい街を落ち着かない気持ちで歩いていると、前方から見覚えのある人物が疲れた様子で歩いてくるのが見えた。
「あれ、水無月さん。今日はもう上がりですか?」
そう言って笑みを浮かべたのは松本だ。たしか如月と同期と言っていたか。叶向は会釈して「お先に失礼します」と答えてから「松本さんは今から帰社ですか?」と続けた。
「そう。本当はもうちょっと早く戻りたかったんだけど、客先でトラブルがあって」
苦笑しながら彼は頷き、そして「あー、そういえば」となぜか視線を彷徨わせた。不思議に思って叶向は首を傾げる。
「……ちょっと聞いてもいいです? 如月のことなんですけど」
「如月さん?」
「ええ。なんかあいつ、最近元気ないですよね? 何かあったのかなぁと思って」
「――なんでそれをわたしに聞くんです?」
叶向の質問に、彼は「いや、なんとなく」と首を傾げて続けた。
「水無月さん、最近よく如月のこと見てるから気にしてくれてるのかと」
その言葉に、思わず叶向は目を見開いた。
「わたしが?」
松本は頷く。
「何かあったのか聞いてますか? 悩みがあるとか」
叶向は眉を寄せて顔を伏せた。
「いえ、なにも。あの、すみません。失礼します」
一方的に会話を切って叶向は足早にその場から立ち去る。そうしながら、動揺が顔に出ていなかっただろうかと自分の頬に片手をやった。
――わたしが如月を見ている?
そんなはずはない。そうしないようにしていたはず。彼女のことなど気にしないように。それなのに。
「……如月が悪い」
俯いて歩き続けながら呟く。如月が、あからさまに落ち込んだ様子を見せるから否が応でも気になってしまう。つい彼女に触れて慰めたくなる。高校時代のように。あの頃の如月は些細なことでよく落ち込んでいたから。
叶向はゆっくりと足を止め、深くため息を吐きながら頬に当てていた手を額へ移動させた。
――どうしたらいいんだろう。
どうしたらこの気持ちを止めることができるだろう。いっそのこと昔みたいに話してみればいいのだろうか。
いや、ダメだ。それではあの頃と何も変わらない。結局、叶向の中に残るのは虚しさだけだ。今の彼女のことを知りたくない。知ってしまえば、きっと前よりも欲しくなってしまうから。
「――美守」
叶向はスマホを取り出す。今日は木曜日。バーは定休日だ。きっと彼女は自宅でゴロゴロしているに違いない。叶向は美守へ「今から行く」とだけメッセージを送り、返事を待つこともなく再び足を踏み出した。
「あんたさ、こっちの都合も考えないでいきなり来るのやめてくれない?」
アパートへ行き、合鍵で勝手に部屋に上がり込んだ叶向に向かって風呂上がりの秋山はとくに怒った様子もなく淡々とした口調で言った。
「一応メッセージは送った」
「お風呂入ってたんだってば」
「長風呂なのが悪い」
叶向は冷蔵庫から無断で取り出したビールを飲みながらベッドに背をつけてテレビを見つめていた。普段からテレビを見る習慣のない叶向には、いま流れているドラマの展開がよく理解できない。
「ビール代、ちゃんと払ってよ?」
「ケチ」
呟くと顔にバシッとタオルが投げられた。少し湿ったそれは重みがあり、当たった頬には鈍い痛みが広がっていく。
「……今日、泊まっていい?」
手に取ったタオルを見つめながら叶向は問う。しかし返事はない。顔を上げると、秋山は小皿を二つ持ってきてテーブルに置いた。
「ダメって言っても泊まるでしょ、あんた。追い出してもドアの前で寝てそう」
「さすがにそれはしないよ」
叶向は苦笑すると目の前に置かれた小皿を見つめた。それは何かを煮詰めたつまみらしきものだった。
「なにこれ」
「さあ。適当に作ってたらできたやつ。意外とイケる」
「なにそれ」
叶向は笑いながら小皿を見つめ、深く息を吐く。
「……もうやめれば? あの子と働くの」
視線を上げると彼女は無表情に叶向を見ていた。
「――なんで?」
「あんた最近、わたしに依存しすぎだよ」
否定はできなかった。だって彼女はこんな自分を受け入れてくれるから。口では迷惑そうにしながらも、決して拒絶したりはしないから。だからどうしてもそこに甘えてしまう自分がいる。
「知ってるでしょ? わたし、そういうの好きじゃない」
知っている。彼女は誰かに依存されることを嫌う。そして誰かに依存したりもしない。叶向とは違う。彼女は受け入れるだけで何も求めない。
「あの子と働くのがしんどいなら――」
「そうじゃない」
思わず叶向は彼女の言葉を遮っていた。秋山は眉を寄せる。
「違うの? そうは思えないんだけど」
「そうじゃないこともないけど、そうじゃない」
「……日本語がおかしい」
叶向は軽く笑ってから「最近、如月がわたしを避けてる気がして気になるというか」と顔を俯かせた。きっと呆れられるだろう。そう思ったのだが、予想外に秋山は「へえ、そう」と答えただけだった。顔を上げると、彼女は叶向の手からビールの缶を取り上げて一口飲んだ。
「美守?」
「なに」
「なんか変」
「うっさい」
彼女はそう言うと手にした缶を見つめて「たぶんそれ、わたしのせい」と続けた。今度は叶向が眉を寄せる。
「なにが」
「だから、如月さんがあんたを避けてるの」
「なんで」
「見られたから。わたしのこと」
彼女の答えは要領を得ない。叶向がじっと見つめていると秋山は缶をテーブルに置いた。
「先月の中旬くらいかな。あんた、空きっ腹にちゃんぽんしてヤバくなってたときあったでしょ」
「あったっけ」
「忘れないで。あの日のわたしの苦労をなかったことにしないで」
彼女は不愉快そうにため息を吐くと「あの日、あんたが帰ろうとしたとき」と続けた。
「一人で帰るっていうから見送ろうと思ったら結局フラフラで帰れなくてわたしに寄りかかってきたでしょ。店の前で。あれ、見られたんだよね。如月さんに」
叶向はぼんやりと記憶を探る。たしかに先月は一度だけひどい酔い方をしてしまったときがあった。しかし、そのときの記憶は曖昧だ。
「なんであの子があそこにいたのかは謎なんだけど」
「あー、それはわたしが教えたから、美守の店」
「は? なんで」
「如月が知りたがったから」
「……わたしの店ってちゃんと言った?」
「高校の友達がやってる店って説明した」
すると彼女は呆れたように叶向を軽く睨むと「何やってんだか」と髪を掻き上げた。
「わたしがあの子に嫌われてるの、知ってるでしょ?」
「え、知らない。なにそれ」
「なんで知らないの」
「なんでって……」
知るわけがない。高校時代、秋山と如月に接点などなかったはずだ。二人で話しているところだって見たことはない。
「まー、とにかく」
秋山はそう言うと再びビールの缶を手に取ってグビッと飲み干した。
「あんたが避けられてる理由は十中八九わたしだよ。避けられるのが嫌なら話してみれば? あの日は酔っててわたしにひどい迷惑をかけてただけだってさ」
「……話す」
できるだろうか。ちゃんと普通に、ただの同僚として彼女と会話をすることが。
「ほんっと、めんどくさい奴」
カンッとテーブルに空き缶を置いた彼女はそう呟くと「夕飯はカップ麺ね。作るのダルいから」と洗面所へ消えていった。髪を乾かすのだろう。
「あ、それと叶向は床で寝てよ? あんたの抱き枕になるの、もう飽きたから。そんな気分でもないし」
そう言う彼女の声を聞きながら叶向は考えていた。
避けられるのは嫌だ。如月を避けたくもない。話して、彼女との関係はどんなふうに変わるのだろう。新しい関係を築くことはできるだろうか。過去のことは思い出として互いの胸の奥に収まってくれるだろうか。
「……それも嫌だな」
呟き、叶向は甘辛いつまみを口に入れた。
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