- 二月 -

ないもの

第37話

「あと二ヶ月か……」


 一花は部屋のカレンダーに視線を向けて呟いた。いや、正確にはもう二ヶ月もないのだ。水無月の仕事の契約が終了するまで。

 四月から水無月と一緒に働くことはなくなる。それは彼女が職場にやってくる前の状態に戻るだけ。

 新しいプロジェクトが始まって、必要があれば外部から誰かがメンバーとして入ってくる。ただそれだけのこと。その誰かが水無月である可能性もあるのだろう。しかし今のところ彼女の様子からそれはなさそうだ。


「水無月は平気なのかなー」


 一花はため息を吐いてカーペットの上で仰向けに寝転がる。きっと平気も何もないのだろう。大人なのだから仕事とプライベートはきっちり分けるべき。彼女ならそう言いそうだ。

 テレビから昼のワイドショーの音が聞こえてくる。少し前までは毎週見ていた番組だが今ではあまり見なくなった。水無月と付き合い始めてから週末はいつだって彼女と一緒にいたからだ。時には秋山も誘って車を出してもらい、遠くの観光地へ日帰り旅行に行くこともあった。

 昼間に会えないときは夜になってから秋山の店で会う。そんな週末が当たり前になっていた。

 しかし、この土日は一人だ。


「――つまんないなぁ」


 そう呟いたものの、用事があるからと水無月に断りを入れたのは一花の方だ。今さら電話もしづらい。いや、つまらないわけではないのだ。なにせ今日は水無月のため、バレンタイン用のケーキを焼いているのだから。


「うまく出来るかな」


 生まれて初めてのケーキ作り。簡単に上手に作れるわけがない。そう秋山に言われたので土日をフルに使って美味しいものを作ろうと思い立った。

 出来上がったケーキを渡したとき、水無月はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。高校時代、彼女が一花のお弁当を食べてくれたときのような、あの優しい表情を見ることができるだろうか。

 そのときのことを考えると楽しみであると同時に不安にもなる。


「……どうやって渡そう」


 寝転んだまま身体を横に向けてスマホを手にするとカレンダーを表示させる。

 バレンタインデーは月曜。当然のことながら平日なので仕事だ。サイズが小さなケーキとはいえ、さすがに職場に持っていくわけにはいかない。では秋山の店に置かせてもらって退勤後にそこで渡そうか。考えてから「嫌な顔されそう」と苦笑する。

 最近、秋山と話すようになってわかったことがある。それは彼女は水無月のことを友人として大切に想っているということだ。

 最初のうちは彼女と話すたびに彼女と水無月との関係が気になって嫌な気持ちにもなっていた。秋山だって一花のことを邪魔者のように思っているのでは。そう思っていたのだが、彼女と会話する機会が増えるにつれてその気持ちも薄らいだ。

 高校時代の彼女への印象はたしかに良くなかった。しかし、よく考えてみれば高校時代は彼女のことをそれほど知っていたわけではない。ちゃんと会話をしたのだって数回程度。それで彼女が嫌な奴だと決めつけていた自分は、やはり子供だったのだろう。


「一応、聞いてみようかな」


 呟きながら身体を起こすと秋山の電話番号を呼び出す。

 土曜日の昼過ぎ。もう起きている時間帯だろう。彼女の生活は規則正しく夜型だ。今はきっと着替えてまったりと食事をしている頃。

 そんなことを思っているとコール音が途切れた。そして「何か用?」と面倒くさそうな声が聞こえる。


「ご飯中?」

「なんでわかるの。怖いんだけど」


 一花は笑いながら「最近、ちょっとわかってきたんだよね。秋山さんのこと」と答えた。


「……何の用?」


 少し困ったような声が面白い。一花は笑みを浮かべて「ケーキのことなんだけど」と言った。


「ああ。もうできたの?」

「ううん。いまスポンジ焼いてるところ」

「何回目?」

「一回目」

「じゃ、失敗確実だ」

「ひどい」


 秋山はククッと笑ってから「それで?」と面倒くさそうに言った。


「ケーキに挫折したって感じじゃなさそうだけど」

「うん。その、どう渡したらいいか悩んでて」

「……は?」


 秋山の声は心から怪訝そうだった。


「普通に渡せば?」

「いや、そうなんだけど職場だと渡せないし……。だから、その、もしよかったら――」

「嫌」


 一花が言い終わる前に秋山は言った。彼女はため息を吐きながら「前も言ったけどさ」と続ける。


「あんたたちの仲にわたしを挟まないで」

「……やっぱり迷惑?」

「迷惑。それに、それじゃダメだと思うから」


 秋山はそう言うと少し沈黙してから「叶向はさ」と続けた。


「多分、わたしが近くにいないと不安なんだと思う。高校を出てからずっと叶向の近くにいたからね」

「うん……」


 そうだろうと思う。水無月から聞く話の中にはいつだって秋山の名前が出てくる。高校を出てからの思い出にはすべて秋山がいたのだ。


「でも、今はあんたがいる。わたしはもういらないでしょ」


 そう言った彼女の声はどこか寂しそうで、思わず一花は「そんなことないよ」と口を開いていた。


「なんで?」

「なんでって……。だって水無月、言ってたし。秋山さんはすごく大事な友達だって。だからわたしがいるとか関係なく、水無月には秋山さんが必要なんだと思う」

「……あんたはそれでいいわけ? わたしのこと嫌いなくせに」


 それを聞いて一花はわざと大きくため息を吐いた。


「なに、そのわざとらしいため息」

「普通さ、嫌いな人にバレンタインの相談したり休日に電話かけたりなんてしないよ?」

「……そうなの?」

「そうだよ。わたし、秋山さんとはちゃんと友達になれたと思ってたんだけど」


 残念そうに言うと彼女は黙り込んでしまった。やはり彼女は一花のことを友達と思ってはいなかったということだろうか。

 少し不安になっていると「家でいいんじゃない?」と素っ気ない彼女の声が聞こえた。何のことを言われたのかわからず、一花は「え、なにが?」と変な声を上げてしまう。


「だから、ケーキを渡す場所。その相談だったんでしょ?」

「ああ、うん。そうだけど急に言うから」


 一花は苦笑して「でも水無月は家がどこなのか教えてくれないし」と俯きながら言った。


「あいつ、まだ怖がってるからね」

「なにを?」

「如月さんとの関係。自分が何かしたら新しい関係も壊れるんじゃないかって、たぶんそんなこと考えてるんだよ」

「そうなんだ……」


 だから水無月は一花のことを聞こうとしないのだろうか。いくら一花が水無月のことを聞いても彼女は一花のことを聞こうとはしない。今までのことも、何も。

 そのことがずっと不安だった。彼女は一花に興味がないのではないか、と。だが、もしかするとそれは今の一花を何も知らない状態での関係を保っていたいという彼女の想いだったのかもしれない。

 一花は小さく息を吐く。


「やっぱり秋山さんは何でもわかるんだね。水無月のこと」

「――友達、だからね」


 小さな声で彼女は言う。そしてすぐに「連れて行けばいいんじゃない?」と続けた。唐突な言葉に一花は思わず「え、なに?」と眉を寄せる。


「だから、ケーキを渡す場所」

「待って。秋山さん、会話が飛びすぎ」

「うるさい」


 怒ったような口調だが、なんとなく彼女の表情が想像できる。

 秋山が唐突に会話を別方向へ持っていくのは照れ隠しだ。以前にも何度かあった。一花が彼女を褒めると、彼女は怒ったように視線を逸らしてまったく別の会話を始める。そのときの彼女の表情は怒っているようだったが嬉しそうでもあった。きっと今も電話の向こうではそんな顔をしているのだろう。一花はフフッと笑う。


「今、わたしのこと笑った?」

「ううん。笑ってない」

「ウソ」

「まあ、いいじゃん。それで連れて行くってどこに?」


 電話の向こうから深いため息が聞こえた。そして「あんたの家」とぶっきらぼうに秋山は言う。


「わたしの家? でも、言ったら来てくれないと思うんだけど」

「言わなきゃいいじゃん。あいつ単純だから一緒にご飯食べようとか適当なこと言えばついてくるよ」

「単純って……」


 一花は声を出して笑うと「でも、うん。そうしようかな」と頷く。


「解決した? わたし、そろそろ店に行って開店準備したいんだけど」


 素っ気ない秋山の言葉は、しかし嫌ではない。以前のようなモヤモヤした気持ちも湧いてはこない。むしろ、どこか心地良い。


「秋山さん」

「なに。まだ何かあるの?」

「ありがとう」


 彼女は返事をしない。ただ微かに笑ったような息遣いが聞こえた。一花は微笑む。


「これからもよろしくね」

「面倒なことはお断りだから」


 言って彼女は通話を切ってしまった。一花はスマホをテーブルに置きながら笑う。


「素直じゃない人だな」


 だけど良い人だ。水無月がずっと彼女のそばにいた理由がわかる気がする。

 彼女には物事を客観的に捉える視点と深い優しさがある。だから水無月が何を考え、何に苦しんでいるのか理解できたのかもしれない。

 それに比べて一花はいつだって自分のことしか考えられなかった。だから高校時代も秋山のことを敵視していた。


「わたしは本当、ダメダメだ」


 そのとき、オーブンが鳴ってスポンジケーキの焼き上がりを告げた。微かに焦げた香りがする。どうやら初めてのスポンジケーキは失敗に終わりそうだった。

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