第36話
昼休憩が終わるまであと十五分ほど。叶向は如月と並んで会社への道を歩いていた。いつもなら彼女が色々と話を振ってくれるのに今日は静かだ。秋山の店では楽しそうにお喋りをしていたというのに、どうしたのだろう。
不思議に思っていると彼女は「あのさ、水無月」と、どこか神妙な面持ちで口を開いた。しかしそれから次の言葉が出てこない。叶向は首を傾げる。
「なに?」
「いや、その……」
彼女は迷うように視線を泳がせる。叶向は歩きながらそんな彼女の顔を覗き込んだ。
「なに?」
すると彼女は「別に違うんだったらいいんだけど」と前置きをしてから続けた。
「もしかして松本のこと、まだ気にしてるのかなって」
叶向は少しだけ眉を寄せる。
「なんで?」
「だってさっき、なんか気にしてる感じだったから」
言われて思い出してみる。そして「ああ」と叶向は声を出して笑った。
「ミーティングのこと? 違うよ。ただそうだったなぁと思っただけ」
「そう?」
「そうだよ。それにもう分かってるし」
叶向が笑いながら前を向くと如月は「何を?」と怪訝そうに言った。
「如月が松本さんのこと何とも思ってないってこと」
「……何とも思ってないことはないけど。あいつ、良い奴だし」
「ああ、うん。訂正。ただの友達でしょ。如月の顔見てたらわかったよ」
「そう?」
「そう。如月が松本さんに向ける顔は友達に向ける顔だよ。昔と同じ」
叶向の言葉に彼女は納得していないような表情で自分の頬に手を当てた。そんな彼女を横目で見ながら「でも、向こうは違うと思うけどね」と続けた。如月は頬に手を当てたまま叶向をまっすぐに見つめる。
「……言う」
「ん、何を?」
「わたしと水無月のこと。松本にちゃんと言う」
如月は手を下ろしてそう続けた。叶向は彼女から視線を逸らすと「やめときなよ」と軽く笑う。
「なんで?」
「仕事やりにくくなるだけだって」
「いいよ、別に」
「ダメ」
「なんで?」
「わたしと違って如月はこれからもあそこで働くでしょ?」
すると如月は立ち止まった。それに気づいて叶向も立ち止まる。彼女はまっすぐに叶向を見つめたまま「働くから言っちゃダメなの?」と低い声で言った。
「だったら辞める」
その言葉に叶向は思わず目を見開く。
「……どうしたの、如月」
いつもと少し様子が違う如月に叶向は困惑してしまう。
「そんな簡単に辞めるなんて言ったらダメだよ。良い職場なのに」
「でも水無月はいなくなるんでしょ?」
「契約が終わればね」
「そしたらどうするの?」
「次を探す」
「わたしは?」
叶向は眉を寄せて首を傾げた。如月はなぜか泣きそうな表情をしながら叶向のことを見つめている。
「どうしたの、ほんとに。如月はあの職場でずっと働くでしょ? わたしがいてもいなくても変わらない」
「水無月がいなくなったら会えなくなる」
「そんなことないよ。休みの日とか会えるし、美守の店だってあるじゃん」
「家は?」
彼女は心細そうに言って叶向のコートの袖を引っ張った。
「家……?」
「仕事終わりに会いたいときは? わたし、水無月の家がどこか知らない」
「それは……。今までそういう話にならなかったし」
「じゃあ、行ってもいい?」
訴えるような目で見てくる如月から叶向は視線を逸らした。そして袖を持つ彼女の手を片手で握る。
「また今度ね」
「……いつ?」
叶向は答えることができず、ただ微笑んだ。
「――早く戻ろう」
そっと手を放して叶向は歩き出す。少し向こうに見える横断歩道の信号が点滅している。
「水無月」
すぐ後ろで如月の力ない声がする。視線だけを振り向かせると彼女は悲しそうな顔を叶向に向けていた。その表情に胸が痛む。
「なに?」
胸の痛みに気づかないふりをして叶向は微笑んだまま訊ねる。
「手、もう一回繋いでもいい?」
視線を前方に向けると横断歩道の信号は赤に変わっていた。信号を待っている人の中に職場の人はいないようだ。叶向は彼女に左手を差し伸べる。
「横断歩道を渡るまで、ね」
すると如月は嬉しそうに叶向の手を握ってくる。温かくて柔らかな手は叶向を放すまいと力強い。
ちゃんと付き合い始めてから、この手を握るのは何度目だろう。二人で出掛けるときはよく手を繋いでいる気がする。しかし、それ以上のことはしていない。
抱きしめたりもキスも、何も。
今の叶向には彼女の手以外に触れる勇気がない。
――何が怖いの?
秋山の声がずっと頭の片隅で問いかけてくる。叶向は手を握ったまま身体を寄せてくる如月の横顔を見つめた。
周囲に自分たちの関係が知られることを恐れない彼女の態度は高校時代とは違う。それは彼女が様々な経験を積んで大人になったからだろうか。それとも彼女の中で叶向へ向ける気持ちに変化があったからだろうか。
――嫌われるのが怖い。
最初はそう思っていた。如月に嫌われるのが怖い。そのはずだった。しかしそうではないのかもしれない。
じっと見つめる叶向に気づいたのか如月が微笑む。さっきまでの悲しそうな表情を押し込めて、叶向を安心させるように。
横断歩道の信号が青になり、如月が「行こ?」と歩き始める。しかしその歩幅は小さい。少しでも長く手を繋いでいようとしているのかもしれない。そんな彼女の行動に叶向は微笑み、しかし同時に不安が沸き起こる。
――怖いのは如月に嫌われることじゃない。
如月の手を握りながら思う。
怖いのは、彼女の気持ちが変わることだ。
もし彼女が本当に叶向のことを好きになったとき、その気持ちに応えられないのではないかと思うと怖い。それに応えられなかったとき、如月がいなくなってしまうのではないかと思うと怖かった。同時に如月を傷つけてしまうかもしれないという恐怖もある。
「……ごめん」
交差点を通り抜ける車のエンジン音に紛れるような小さな声で呟く。如月は不思議そうに首を傾げた。
「何か言った?」
「うん。手繋ぎタイムは終了って言ったの」
笑って叶向が手を放すと如月は「えー、あと二歩残ってたのに」と不満そうに頬を膨らませた。
「残念。如月の二歩はわたしの一歩」
「……それ、ちょっと傷つく」
彼女はそう言ったが、すぐに気を取り直したように「今日、やっぱり松本にはちゃんと言うからね」と強い瞳を叶向に向けた。
「え、わたしたちのこと?」
「ううん。松本と付き合う気はないってこと。まあ、勘違いだったら恥ずかしすぎるけど」
彼女はそう言って笑うと「じゃ、先に戻ってるね。会議室のセッティングしなくちゃ」と歩みを早めた。
「ミーティングの準備、あとで水無月も手伝ってよ?」
「了解」
叶向が手を振ると如月は急ぎ足で会社へと戻っていく。
「――ごめんね、臆病者で」
遠くなっていく背中に呟く。
如月は高校時代とは変わっていない。そう思っていたのに一番変わっているのは彼女かもしれない。
彼女は強くなった。
とても。
対して自分は何も変わっていない。臆病者で自分のことしか考えられない、ダメな人間だ。
――如月は今、わたしをどう思っているんだろう。
如月と繋いでいた手に視線を落としながら思う。
彼女の叶向へ向ける気持ちは確実に付き合い始める前とは違う。そう思う。
彼女は手に入れたんだろうか。ずっと欲しかったものを。
――わたしは、どうだろう。
吐いた息が白く宙へと消えていく。如月はもう建物に入ったようだ。叶向は彼女の温もりが残る手を握りしめ、会社へと足を進めた。
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