第8話 アジの横で戸板に並べた小冊子を売る 🧩



 なりゆきでこうなりましたとは、さすがに言いにくい。思い悩んでいるとき、日独協会の経営不振で給料が未払いになったのを機に思いきって守田に打ち明けてみた。苦労人の守田はタイの将来を案じ、ずるずるの同棲には反対のようだったが、説教は反作用するとも思ったようで、何事も経験だからやってみたらいいと言ってくれた。


 かくて大正十二年の三月、十八歳のタイは十九歳の山本虎三との同居を開始する。

 七輪、土釜、鍋、包丁、まな板代わりの板きれ、それがふたりの所帯道具だった。守田は半年もつまいと踏んだらしかったが、あにはからんや当のふたりは互いに意外な相性を見出し、社会主義活動も文学も捨てても惜しくないとまで思い詰めてゆく。


 といっても人格に惚れたわけではないので、ひたすら一緒にいられる時間の大半を布団のなかで過ごす、はた目から見れば極めて自堕落で野放図で、だらしない生活。

「ねえ、あなた、こうしていられれば、なにもいらない、あなたさえいてくれたら」

「おれもさ。おまえと抱き合っていられるなら、たとえ世界がなくなってもいいよ」


「ばかねえ、世界がなくなったら、わたしたちだって生きていられないじゃないの」

「そりゃそうだが、おれはおまえの丸い身体さえあれば、ほかに欲しいものはない」

若い欲望を剥き出しにした虎三は、朝も夜もタイの身体を求めつづけ、それだけでは足りなくて、新聞社から昼飯に帰って来る、その時間も惜しんで雄の情欲を貪った。


 応えるタイの感覚も日増しに鋭敏になり、この快楽があればなにもいらないとまで行為に委ねきり、あれほどいやだった虎三の欠点も目くらましされたようになった。あとで振り返ってタイは、自分ほどの天邪鬼がなぜあの程度の男にあそこまで夢中になれたのか自分で自分が分からなかったが、それもこれも未熟の季節の証しだろう。



      *



 奇妙な自信を得たふたりは、伝手をたどり、虎三の先輩宅を訪ね歩く。当時、尾崎士郎と恋愛関係にあった宇都千代は流行の耳隠しに結い、着物は意外に質素だった。

「気をわるくせず聞いてくれ。おまえが席を立ったとき、尾崎さんに忠告されたよ」

「ふふふ『あの女はきみのためにならない』でしょう。障子のかげで聞いていたよ」


「だけど、そばに黙ってすわっていた宇野さんはきみの味方だったようじゃないか」

「表面的にはね。でも、同じ女だから分かるの、あの人はけっこうな浮かれ人だよ」一方、粋な立膝で長煙管をふかす格好が玄人っぽく決まっている伊藤野枝は、虎三がいないときを見計らい「あんた、あの男には気をつけなさいよ」と忠告してくれた。


 双方の知人にそれぞれ「ためにならない」とアドバイスされているのに、されればされるほどストイックになり、底を知らない愛欲生活で不安を糊塗しようとするのが若さの無謀なのかも知れない。だれもが一度は通る青春と呼べるものが、このふたりの場合もあったことは、ある種よかったといえなくもない、めくるめく日々だった。



      *



 だが、ときどき故郷を思い出し、このままでは両親に申し訳が立たないと反省するタイは、なんとか自分なりの言い訳めいた未来への途を探り出そうともがいていた。そのひとつとして十八歳の頭脳が思いついたのが「革命を起こせ!!」と書いたビラをメーデーで配ることだったのだから、今日から見れば呆れるほど突拍子もなかった。


 だが、それは他人の観察するところで、当の本人にとっては真剣そのもの、平穏なメーデーに割って入り自分たちの存在を広く知らしめたいという一念だったようだ。結果、逃げ遅れた虎三が拘留されたので、群衆にまぎれて逃げおおせたタイは、それから七日を留置所に通い詰め、塀の外で革命歌を熱唱して捕らわれの虎三を励ます。


 若いふたりの幼稚な恣意活動はたちまち周囲に知れた。知人の厚意による保釈金で出て来た虎三は職を失い、下宿も追われて、無謀な同棲生活はたちまち行き詰まる。狭い下宿に移ったふたりは仲間の伝手で、大杉栄訳のクロポトキンの著作を掲載するアナーキストのパンフレットを街頭で売ったが、虎三の性格はたちまち孤立を招く。


 街角に立った虎三が感情にまかせて支離滅裂なアジテーションを行うかたわらで、同じく着たきり雀で髪をそそけ立たせたタイが戸板に並べた小冊子を、五銭、十銭で通行人に売りつけるという、そんなどん底生活が始まった。そのころには互いに飽きが来はじめていたが、かといって、この泥沼を這い出る術も見つからないのだった。




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