第9話 恥知らずの家&未曾有の関東大震災 🏠



 ある日、当時は上野の親せきに世話になっていたタイを虎三が迎えにやって来た。

 連れて行かれたのは「恥知らずの家」、歴代住人の破天荒ぶりからの通称である。

「臆病ではにかみ屋のわたしは、社会からはじき出されたようなこの家の二階に住む決意をしたとき、にわかに肚を据えて一桁生き方を変えたふてぶてしい女になった」


 のちに著作のなかで回顧しているとおり、田舎出のぼうっとした十八歳がようやく脱皮を決意した瞬間だった。自分への誓いに、長い髪をぷっつり切って断髪にする。もっとも、虎三の意地悪な観察眼によれば「可愛いおかっぱならまだしも、髪を結う手間を省きたいためにした先端女性の真似で、タイのお面相にざんばら頭では……」



      *



 荒れた空き家の「恥知らずの家」の二階に住むふたりは、当然周囲から孤立した。郷里では没落とはいえ名主のむすめだった身が真っ当な人間扱いもしてもらえない。自ずから精神を荒ませたタイは虎三に誘われて「リャク」という強請ゆすりに手を染める。あっと目を剥くほど野卑で派手な着物で銀行へ乗りこみ、名刺と請求書を突き出す。


 先方も心得たものでその筋の男を雇い、いくら欲しいのか単刀直入に訊いて来る。精いっぱい虚勢を張って因縁をつけ、二十円ほどせしめると食料を買って家へ帰る。

「わたしたちこれからどうなるの? どうすればいい? なんとか言ってよ、ねえ」

「うるせえ!! だいたいな、おまえが転がりこんだのがおれの不運の初めなんだよ」


「なにを言ってんのよ、あんたがしつこくつきまとうから来てやったんじゃないの」

「ばかをぬかすな!! おまえのような田舎出のおかちめんこ、だれが相手にするか」なんとかまわっているうちはいいが、強請の当てがなくなって口げんかが増えると、短気な虎三はちゃぶ台をひっくり返して大暴れにあばれ、反抗するタイを殴った。



      *



 大正十二年九月一日十一時五十八分三十二秒、いつもどおり自堕落に過ごしていたふたりがやっと起き出し、履歴書を書いたタイが髪を解いていたとき、家が鳴った。階段を転がるようにして屋外へ逃れたふたりは「木のあるところに逃げろ!!」というだれかの大声に導かれて近くの松平伯爵邸の森へ奔った。あとで関東大震災と知る。


 高いところから四方八方を眺めると見渡す限りに酸鼻を極めていた。帝国ホテルのそばの大きな火災は警視庁と知り「万歳」を叫ぶふたりに周囲の呆れた視線が飛ぶ。興奮のうちにタイはふと妙なことに気づく。これでみんなが平等、無一物になった。そう思うと、地震は天の配剤のようにも思われて来て、さらなる昂りを感じていた。


「ねえ、あんた、こんな機会はめったにないんだから、震災見物に行きましょうよ」

「おまえ、本気か?! こんなときによくそんなことが言えるなあ。恐ろしい女だよ」

「なに言ってんの。あんただってモノを書こうという人間でしょう、貪欲に貪欲に」

「そりゃまあそうだが、なにもこんなときまで……あ、待てよ、ひとりで行くなよ」


 タイに引きずられるような格好で、絶好の蜜の味を吸いに出かけることになった。

どうせ駄目になるんだからという食料品店から大きな牛肉大和煮缶をもらい、神社の境内に火箸が転がっていたのでそれで缶詰を開け、手づかみでむしゃむしゃ食べる。店主の厚意に礼も言わなかったのは、ブルジョアへの当然の仕打ちと考えたからで。



      *



 多くの家屋が犠牲になるなかで「恥知らずの家」は無事だったが、以前から夜ごと外出するふたりは胡散くさい目で見られていたのだろう、震災後の不穏な空気のなかとつぜん警察が乗りこんで来て家宅捜索が始まった。困惑するタイに顔見知りの巡査が手招きするので、助けてくれるのかと思ってついて行くと、留置場に入れられた。


 ショックドクトリンの一種だったのだろう、社会主義者の大検挙が始まっていた。大杉栄と伊藤野枝が甘粕正彦憲兵大尉に殺されたことを市ヶ谷刑務所のタイは知らずにいた。着の身着のままの一か月の拘留は南京虫の襲撃との闘いになった。実のない味噌汁、虫の遺骸や小石入りの麦飯を黙々と食べながら、タイはクールに反省する。


 ――わざわざ諏訪から出て来て、なにをやっているんだろうね、わたしは……。

   この刑を終えて出所したら、きっぱり虎三と別れ、文学の道に立ち返ろう。


 出所の日、刑務所の出口には先に出た虎三と社会主義活動の仲間が待っていたが、ひとりの男性が「妻がご馳走をつくって待っている」とタイひとりを誘ってくれた。仲間から露骨に無視される虎三をタイは放っておけなかった。元の木阿弥と知りながら帰った「恥知らずの家」だが、わずかな荷物も消えていたので住むにも住めない。


 やむを得ずふたりで先刻の男性の家を訪ねると、タイのうしろの虎三を見て男性の眉が曇る。それやこれやで胃がむかむかするタイは妊娠していることを知る。無節操な性についてまわる重大な責任のことを、虎三はもちろん、一身に負うタイも考えてみたことがなかった。若いというだけでは片づけられない深刻な問題が待っていた。




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