第10話 虎三の姉を頼ってふたりで朝鮮へ渡る ⛵



 自ら蒔いた種で苦境に立った虎三が頼ったのは十歳上の姉だった。このときばかりではない、困ると身内に頼る癖があることを、間もなく知ることになるのだが……。 姉は朝鮮の京城(現ソウル)在住で、その夫は特別高等警察の主任をつとめていた。事前の許諾も得ず、仕事の当てもないのに、虎三はタイを伴って行く気満々だった。


 タイが相談した年輩の女性は「あんな無責任な男について行ったら、あんたが苦労するのは目に見えている。そんな無謀、絶対にやめた方がいいよ」と大反対だった。だが、世間知らずのタイは、あんまりな言われようにかえって虎三を庇いたくなり、自分がいなければ駄目になる、自分がこの人を守ってあげようと気持ちを昂らせた。


 ああいう顛末で新聞社をやめさせられた退職金は微々たるものだったし、タイにも貯蓄のあろうはずがない、虎三が渡航費用の寄附を当てこんだのは有島武郎だった。このころ、有島は北海道に所有する広大な土地を解放するなどして評判になっていたので、面識があるだけの虎三も、厚かましい請いを持っていきやすかったのだろう。


 期待どおり有島は手持ちの金を旅費に出してくれ、それでは小遣いが不足とごねる虎三に紹介状を書いてくれたので、出版社に行って印税の前借までさせてもらった。のち、その有島が女性編集者と別荘のある軽井沢で心中を遂げたのは、虎三が訪ねた数日後だったことを知ったふたりは、目を丸くして絶妙のタイミングを語り合った。



      *



 京城の姉は、弟のとつぜんの訪問に目を瞠って驚いた。特高の家にアナーキストとして日本で目をつけられている義弟が住むなど世間に知られたら大変なことになる。

それでなくても虎三に先駆け妹がすでに世話になっていたので、さらに身内がふたりも増えては広い家に越さなければならなくなり、夫への気苦労は計り知れなかった。


「ほんとにもう、おまえたちはどうしてみんなでわたしを当てにするんだろうねえ。わたしの立場を少しは考えてみて。うちの人や親せきにどれだけ肩身が狭いか……」

「ごめん、姉貴。このとおりだからさ、当分はここにいさせてよ。その代わりというのもなんだけど、タイをいくらでも使ってくれていいよ。女中がわりだと思ってさ」


「そんな調子のいいこと言うけど、あの人、暮らしの役に立つとでも思ってるの? 炊事、掃除、洗濯、なにひとつまともに出来やしない。裁縫に至ってはおまえ……」

「あ、それはおれも認めるよ。けど、彼女なりに一所懸命なんだよ。だから慣れない手つきでおれの浴衣を縫ったりしたろう。健気なものだと大目に見てやってくれよ」


 実際、タイは必死な思いで男物の浴衣を縫い上げたが、仕立てあがるころには指先が傷だらけになっている始末だった。なんでも楽々とこなす母親に似ず、生まれつき手先が不器用で、諏訪高等女学校時代にも裁縫の科目ばかりは大の苦手だった。このコンプレックスは作家として名を成してのちも執拗にタイにつきまとうことになる。



      *



 夫の俸給で家計をやり繰りせねばならない姉に一から十まできびしい節約を命じられたタイは、自分たちのせいであることも忘れしだいに不満を募らせていく。一方の虎三はそういうところが少しおかしいのではないかと言いたくなるほど自分の立場に無頓着で、肴つきで嗜む義兄の晩酌に、滔々と女性解放へのいやみを述べたりした。


 鬱憤のたまるタイが同居人への不満を虎三に告げると、即座に姉に筒抜けになる。そのあたりの無節操 or バランス感覚もまた腰のすわらない男に特有のものだろう。それやらこれやら少しばかり経験を積んだといえど女学生気分の抜けきらないタイは捨てて来たも同然の故郷に窮状を訴える手紙を書いて、切手を貼らずに投函する。


 朝鮮に渡るまでの経緯をいっさい知らされぬまま、いきなり着払郵便を受け取った生家では大騒ぎになり、父親が現地に迎えに出向くという話まで出たが、結局は知人から借りた金を送ってくれることになった。タイは申し訳ないと思うよりも、これでやっと日本へ帰れると、両親の心配や苦労には通り一遍の気持ちしか抱かなかった。




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