第11話 身重のからだで流浪の果てに大連へ 🌏



 日本へ帰ったタイの足が向かったのは諏訪だった。虎三は名古屋の友人を頼った。母に目ざとく妊娠を疑われたタイは肩で息をするのは肥満ゆえとごまかしておいた。帰国の足がかりとして身を寄せた故郷に長くいるつもりはなかった。家族の気苦労や迷惑は一顧だにせずひたすら自分自身、とりわけ妊娠中絶のことばかり考えていた。


 なにひとつ成していない状態で子どもは産めない。そんなことしたら一生が台無しになってしまう。いまは少し遠まわりしているが、わたしはなんとしても文学で身を立てるのだ。足手まといになる子どもを一刻も早く処置できるように八方に手を尽くそう。そのためなら、わたしはなんだってする。いまこそ、わたしの正念場なのだ。



      *



 名古屋から迎えに来た虎三に連れられ、不肖のむすめは逃げるように諏訪を出る。ふたりの落ちのびた先は虎三の知人がいる下関、相変わらず不安定な生活がつづく。流産をうながす薬を飲んだが一向に兆候があらわれないタイに就職先が見つかった。小さな簡易郵便局の小包係だったが、ある日、逓信監理局から局長に通達があった。


 虎三は危険人物なので雇用しないようにという報せだった。せり出して来るお腹を気にしながら雑誌の訪問販売や内職に勤しむが、かたや虎三は依然として働かない。そればかりか気に入らないと身重のタイを殴る蹴るの狼藉の限りを尽くす。あげく、またしても身内を頼ろうと言い出した虎三に、ほとほと愛想が尽きる思いだった。


「大連で満鉄社員をしている異母兄は父の遺産を横取りしおれを追い出したやつだ」ゆえに面倒を見てもらって当然だと虎三は息まくが、いままでが、いままでである、どうだか分かったものではなかった。タイは虎三という男をまったく信頼していない自分に気づくと、まぎれもなくお腹の子どもの父親である、冷厳な事実が痛かった。



      *



 なんとか旅費を工面し、強引に押しかけて行った兄に歓迎されるはずもなかった。

 着いたその夜から実弟をさしおいて、言いやすいタイに向けての説教が始まった。

「きみたちはいつまでわが家にいるつもりだね? とつぜん来られても困るんだよ」

「すみません、あの人に訊いてください。わたしはこのとおりの身重ですので……」


「そんなことそっちの勝手だ。それに出産は妻の実家に世話になるのがすじだろう」

「それはそうなんですが、もう来てしまったことですし……あ、いえ、すみません」ケリをつけたい兄から日本への旅費をせしめた虎三は、そのままキリスト教関係者で馬車鉄道会社を経営している知人を訪ね、ふたりで置いてもらうことに話をつける。


 虎三はここでも好かれなかったが、炊事係を仰せつかったタイは、夫人から木綿の布と綿をもらって赤ん坊の布団を作り、牧師夫人から産着を贈られ、人情に泣いた。連続する苦労がたたって鳥目と脚気になったタイをよそに、虎三は仲間のビラ撒きに加担した不敬罪で捕えられた。警察に密告したのは世話になっている家の主だった。


 

      *



 家を追われたタイはすでに臨月のお腹を抱えていたが、親切な牧師夫人の口添えで施療病院に入院できた。だが、だれも付き添いのいない惨めでさびしい妊婦だった。

「あの……失礼だったらごめんなさい。おうちの方はだれもいらっしゃらないの?」

「あ、ええ、ちょっと事情がありまして。祖国は日本ですし、夫も遠くにいるので」


「それはさびしいわね。もしよかったら、わたしにお手伝いさせてくださらない?」

「ありがとうございます。見ず知らずの方に……ご好意に甘えさせていただきます」あまりの窮状を見かねた同部屋の脊椎カリエスの女性の、自身も辛いのに手を差し伸べてくれようとする温情が心身に沁みたタイは、わが身の不運にさめざめと泣いた。


 ふつうならおっかさんがそばにいていてくれるのに……虫のいいことを考える自分が腹立たしい。一流の女賊になれと励ましてくれた父にも申し訳が立たなかったが、嘆いたところでそういう生き方を選んで来たのは自分自身だからどうしようもない。他のだれにも向けようのない怒りを自分に向けて、異国のベッドに横たわっていた。




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