第16話 林芙美子&坪井栄との交友 💄



 ひとまず銚子へ帰ってみると、留守のあいだに坪井繁治を訪ねて栄がやって来て、その所持金に助けられた男たちは東京へもどったらしく、合宿はもぬけの殻だった。飯田が着ていたコートを質に入れたり、彼の母親にも無心したりしてなんとか東京へもどり、ふたたび野村を訪ねると、林芙美子が歓迎して夜なきそばを奢ってくれた。


「わたしいま、作家になる足がかりとして自費出版するための日記を書いているの」

「カフェはやめたの? よく食べていけるわね、野村さんも稼いでくれているの?」

「まさか。ここだけの話、わたし、本当に好きな人は別にいるの、野村とは腐れ縁」

「そうなの。辛いからあんなに瑞々しい詩が書けるのね。文才の秘密が分かったわ」


 その芙美子から「ある版元が少年雑誌の原稿を募集している」という情報をもらい二日で書き上げて持参すると、首尾よく十円で売れた。文が金になった最初だった。「わあ、うれしい!! 見て見て筆一本で稼いだのよわたし。今日はプロ作家への第一歩を進めた記念すべき日。自分に目いっぱい奢ってやるの。せめて言葉だけでもね」



      *



 頭金ができたタイが飯田と間借りしたのは、世田谷区太子堂の床屋の二階だった。坪井繁治と栄が近くの二軒長屋に住んでいるところへ、野村と芙美子も越して来た。腰の定まらない芙美子やタイとちがって、地味で堅実な性格の栄は、通信社の原稿の複写の仕事で安定した収入があり、親せきから預かっている子どもの養育費も入る。


 三軒のなかでもっとも暮らしぶりがいい栄の新調の着物を芙美子とタイは羨ましく眺めた。飯田は坪井家の床の間に飾ってあったマンドリンを持ち出して質に入れた。相変わらず男たちは無収入なので、いきおい女たちが稼ぐしかない。芙美子とタイが童話を書いて出版社に売りこみに行くと、帰宅より早く速達で返送されたりもした。


 ときには外出の着物まで質に入れてしまい、いま着ている着物を洗って襦袢のまま乾くのを待ったり、またと思われるのを承知で坪井栄の着物を借りて行ったりした。貧乏は底をつき、持ち込み原稿を断られた出版社からの帰り道、知人の男性宅へ押しかけて食事を奢ってもらい、ほかの知人のところへ寄って電車賃を借りたりもした。



      *



 女たちの苦労に良心を痛めない性質の男たちは揃いも揃って「いまの生活にはあれでいいが、いつか陽の目を見た暁は相応しい妻を娶る」と本気で考えているらしい。そんなことは重々承知で芙美子もタイも男に貢ぎつづけるのは、ひとつには芙美子の言う腐れ縁、ひとつには極めて物理的なドメスティックバイオレンスのゆえだった。


 実際、金がなくなると野村も飯田も極めて不機嫌になり、気に入らないことがあると遠慮なく暴力をふるう。小柄な女たちはその痛さから逃れたい一心で貢ぐ。そんな最低の生活にあっても芙美子の強靭な魂は決して諦めなかった。「わたし、きれいなチャイナ服を着てシベリア鉄道の三等車でフランスに行くの」うっとりと夢を語る。


 現実派のタイにロマンティックな青写真はなく、早く作家として立ちたいの一本鎗だったが、芙美子が綿ネルの新しい着物を見せびらかしに来たときは歯ぎしりする。脂垢のついていない、色褪せてもいない着物が羨ましかったからではもちろんない。自分より先に世に出そうな芙美子に言い知れぬ嫉妬を感じ、ひそかに恨んだりした。




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