第20話 つべこべ言うな、わたしが食わせてやる 🍚



 久しぶりに両親の愛に包まれぬくぬくと数日を過ごしたタイは、帰京とともに結婚準備を始めるつもりだったが、そこへ届けられたのが「チチキトク」の電報だった。急いで諏訪へ取って返し、残された母親が心配で葬儀のあともなかなか東京へもどる気になれずにいたところ、苛立った小堀から一刻も早い帰京をうながす手紙が届く。


「われわれ社会主義者は肉親を捨てているはず。父親を失った悲しみもほどほどに」という冷淡な手紙にタイは「それはそうだけど、なにも……」複雑な思いを味わう。小堀はそれまでタイの周囲にいた男たちとはなにからなにまで様相が異なっていた。すこし前まで現場を渡り歩く大工だったので、日常の所作にも労働の匂いが漂った。



      *



 とにもかくにも新婚生活と呼べる同棲がスタートしたが、それから十日も経たないうちに諏訪を引きあげて来た飯田が、小堀の留守にふたりの部屋を訪ねて来る。金の無心を断ったら着物を質入れして金をつくれと迫られたと報告したタイは、苛立った小堀に襟首をつかんで外へ引きずり出される。その後も飯田のつきまといはつづく。


 外出のタイを待ち伏せて向う脛を蹴り上げたというので小堀が付き添うと、決闘を申しこんで諏訪行きの一夜を告げ口し、淫蕩なタイとの結婚はやめよと言う。夜中にふたりの住まいの台所へ大きな石を投げこむ事件まで起こして、ようやく飯田のいやがらせはやんだ。小堀から諏訪行きの一件を責められたタイは「惰性」で片づける。


 ただ、男性経験の豊富なタイがその方面に疎い自分に満足していないことが飯田の自信ありげな態度からも察せられた小堀は、タイを責めるより自身の充足を試みる。一方、大工仕事のかたわらドストエフスキーなどロシアの作家で文学を知った小堀が『文芸戦線』の講演で留守中に、失業して食いはぐれていた小堀の弟がやって来る。


 とつぜんなので旅先の小堀に電報を打つと、折り返し「好きなだけいさせてやれ」と返電が届いたが、今夜寝させる布団もないので、やむなくタイは諏訪の実家に無心する。故郷から布団が届くまでの数夜、初対面の弟とひとつ布団でやすむことにしたのは並みの女性にできる覚悟ではなかったが、タイにはさほどのことでもなかった。



      *



 しばらくと我慢していた弟はいつまでも帰らない。それどころか兄嫁のタイに用意させた三度の食事に「おふくろなら、同じ材料でもっと旨く食わせる」とまで言う。講演旅行から帰った小堀は弟を窘めるどころか「倹約ばかりしやがって、こんな粗末なものが食えるか」と怒鳴る始末で、兄弟そろって家事を手伝う気もさらさらない。


 ある日、小説の執筆に没頭して夕飯が遅れ、兄弟ふたりに文句を言われたタイは「なぜわたしばかりが責められるの?!」卓上のご飯茶碗や味噌汁を壁に投げつけた。タイの激昂に驚いた兄弟は、はじめて目が覚めたようになって狼藉のあとを片づけ、以後、もともと気持ちがやさしかったのだろう、弟は積極的に手伝うようになった。


 一方、小堀は気まずそうな顔をしながらも弟ほどの誠意は示さず、金がないときは初対面の言葉を根に持ち「おまえを養う契約をした覚えはない」と冷ややかになる。返答が気に入らないとちゃぶ台を振り上げ追いかけて来る小堀から裸足で逃げ出しながらタイは、いつか見ていなさい、小説が売れたら目にモノ見せてやるからと……。



      *



 そうこうするうちに、思いがけない朗報がもたらされる。もう忘れるほど前に大阪朝日新聞の懸賞に応募しておいた『喪章を売る』が石川達三らと共に入選したのだ。本格的な小説家への第一歩が踏み出せたタイが小躍りして喜んだのは当然で、入選を報じる新聞記者の取材を嬉々として受けたり、賞金の大枚二百円をもらったり……。


 陽の目を見ないタイを都合のいい飯炊きと見下していた小堀の胸に、抑えきれない妬心がわき起こったことも承知していたが、自分に力がついてみると、そんなことはどうでもよくなった。小さなことが気にならなくなったタイは、自分のなかに一家の大黒柱たる資質を見出していた。つべこべ言うんじゃない、わたしが食わせてやる。




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