第21話 体験をもとに書いた小説『施療室にて』 🏥



 この時代の男たちの例にもれず、小堀もまた身近な女性に暴力をふるう男だった。タイは、虎三、飯田、小堀と三人の男たちに殴られた経験からの自衛策を考え出す。殴られそうなときはこちらから先に殴りかかるという珍妙な案だったが、夫婦げんかを繰り返すうち、小堀は自分の作家への夢を諦めて政治活動に傾注するようになる。


 無償の活動に没頭されると家計がますます大変になることは明らかだったが、原稿が売れるようになったタイは、男のような気持ちで、大黒柱としての肚をくくった。このころ、原稿を持参した出版社のビルのエレベーター内であれっきりだった飯田に偶然再会するが、案じるほどもなく、先方も大人になっていて静かな挨拶を交わす。



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 タイの書くものは実体験に基づく私小説だったが、時代もあってか読者に受け入れられ、出産体験をつづった『施療室にて』は雑誌掲載時に文芸評論家の推奨も得る。

一方、虎三の場合と同様に、これこそ腐れ縁の見本と言えそうな飯田とのグダグダの愛憎関係は、大阪朝日新聞の懸賞に応募した『喪章を売る』で赤裸々に発表された。


 どちらの作品も露悪趣味と言いたくなるほど露骨だったが、従順一辺倒だった旧来の日本的女性観を打破する斬新な筆致に生々しいリアリティがあり、それが受けた。タイは要請されるままに『文芸戦線』『新潮』『改造』といった雑誌に原稿を書き、それをまとめて単行本も出版する。みんなが驚くほど順風満帆なスタートとなった。



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 昭和二年の三・一五事件で諏訪高女の同窓だった伊藤千代子は同じく日本共産党員の夫と共に逮捕され、拷問を受けたが転向せず精神病院に入り、二十四歳で没する。小堀とタイも家宅捜索を受けたが収監されなかった。のちに『文芸戦線』や社会主義活動の内紛があり、飲酒の機会が増えた小堀は蓄膿症を悪化させ中耳炎も併発する。


『施療室にて』を含む前年度の業績で日本文藝家協会から渡辺賞を授与されたタイは賞金で小堀に手術を受けさせたが、追って自身も喘息になり夫婦で寝つく。やむなく発作が起きると小堀が病床から起き上がって吸入器を借りに行くようになり、自分に尽くしてくれる男に伴侶らしい愛情が芽生え始めたことはタイ自身にも意外だった。



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 とここで長く無沙汰だった虎三が登場するのはどうした縁の巡り合わせだったか。とつぜんの手紙には「家庭雑誌を起ち上げたので、原稿を書いて欲しい」とあった。だが、それはあくまで表向きで、原稿料を払うつもりは毛頭なく、あんに、あるいは露骨に寄附を強制していることが読み取れたので、病床のタイは断固断りつづける。


 埒があかないと見ると「むすめのアケボノの骨を自分に渡すべし」と言って来た。面倒なのでそのとおりにすると、なんと美人の妻を伴いタイの近所に移転して来る。買い物に出かけたタイが虎三宅の前を通りかかると「ちょっと待て」と呼びとめて「おれをモデルにいい加減な小説を書くな」ステッキを振り上げ殴りかかって来た。


 それでも寄附要請に応じずにいると、自分で発行する雑誌にタイのゴシップ記事を載せ始めた。「新しい恋愛だの婦人運動だの中産階級的女流作家だのと、小生意気な言動が目立つ女」「外では鼻息が荒い平林タイも、家庭では亭主の暴力に怯え奴隷として仕えている」陰湿で執拗なペンの暴力そのものに、タイは堪えるしかなかった。


 だれも相手にしない悪徳雑誌といえど、そんなことを書かれておもしろかろうはずもなかったが、居候だった小堀の弟がようやく郷里に帰ったので、夫婦ふたりの気楽な暮らしはしみじみとありがたかった。執拗な虎三のいやがらせはどこ吹く風とやり過ごし、タイはやっと人並みの家庭の穏やかな日常を味わえているような気がする。



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 だが、そん小堀も所詮は旧い体質の男だったので、経済面でも名誉面でも夫の自分を凌ぐ妻を受け入れることに抵抗があったようで、ときどき意地悪を仕かけて来る。注目を集めていた雑誌『女人芸術』主宰の長谷川時雨が自家用車で訪ねて来たときは「おまえもああいう貴婦人に迎合するようになるんだろう」辛辣な皮肉を浴びせた。


 夕飯が遅れることを厭う旧弊な小堀に遠慮していた女性の会合にも出席するようになったタイは、生涯の友となる円地文子との出会いを得てますます輝くようになる。一方、夫婦で同じ目標を持とうという配慮から小堀の友人も加えた三人で習い始めたドイツ語に意外な活路を見い出したのは小堀で、やがて翻訳家としての活動に至る。




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