第22話 作家&下宿屋の二足の草鞋を履く 🧹
自分ではそれほどとは意識しなかったが、タイの作家的地位は確立を深めていた。
執筆はもとより講演や演説の依頼もしばしば舞いこんで来て、俄然、忙しくなった。
だが、そこは堅実な諏訪人たるタイの面目躍如たるところで、せっかく世に出る目処がついたのだからこのまま一気に突き進もうとは思考のベクトルが向かわなかった。
自認もし口うるさい小堀から頻繁に不平を言われていた家事下手をさておき、また友人たちの反対を聞き入れず、わざわざ別に家を借りて素人下宿屋をスタートする。そこもまた諏訪人気質で思いこんだら頑固一徹なタイに呆れながらも、婦人運動家の奥むめおは自分や知り合いの経験をもとにして、成功へのアドバイスをしてくれた。
「若い学生は酸っぱいものを好まないから酢の物はやめて、魚を甘く煮て出したら」
「あら、そ、ちっとも知らなかったわ。ふ~う、最初からつまずくところだったわ」
「その魚も使いまわすぐらいでなきゃ駄目よ。鍋に残ったら翌日コロッケにするの」
「へえ、そうなんだ。残り物を出しちゃいけないと思っていたから、これまた反省」
*
ようやく帰った弟と入れ替わりに上京したがっていた小堀の妹に手伝わせながら、女性の会社員や男子学生の店子を相手にタイは孤軍奮闘したが、結果は赤字だった。やむを得ず生活費を抑えると、妹がろくな食事も与えられていないと小堀にいやみを言われて、相変わらず妻よりも身内が大事な本音を隠そうともしない夫に鼻白んだ。
そうこうするうちに父親の危篤を知らせる電報が来たので、小堀兄妹は取るものもとりあえず慌ただしく帰郷し、不首尾な下宿経営に悩むタイは急にひとりになった。そこであらためて落ち着いて考えてみると、このまま下宿をつづけても明るい未来は訪れないように思われて来る。下宿代を払う赤の他人の冷たさが身に沁みてもいた。
たとえば、浅蜊の澄まし汁に石が入っていたと無言の抗議をするように皿の真ん中に石がのせてあったり、半生の肉の赤い部分をこれ見よがしに膳を返されたりした。下宿屋の女将でありながら妙なところで作家としてのプライドが頭をもたげ、調理は至らなかったかも知れないがなどと下宿人の仕打ちが不当に思われてならなかった。
*
ここでまたタイ生来の独断専行の癖が出て、そばにいないのを幸い、小堀には相談もせずに廃業を決め、全店子に引越料を支払うとさっさと下宿屋を畳んだ。それまでの天手古舞が打って変わってひまになると、にわかに小堀のことが気になり出した。いつまで実家にいるつもりだろう。わたしの父の葬儀のときは矢の催促だったのに。
そう思うとタイは我慢がならなくなり「老いぼれが死のうと生きようと関係ない」と書いた手紙を出したので、当然ながら、小堀は激怒してタイへの不満を募らせた。
葬儀を済ませて帰京した小堀に詫びを入れてなんとか穏便に暮らし始めたところへ、いつぞや原稿を持参した出版社のエレベーターで再会した飯田の急逝の電報が届く。
新聞社の校正係として働き、平穏な家庭生活も営んでいたはずだが、谷川岳で遭難したという。享年三十の儚さを思いながら、過去は過去として受け入れ、それぞれの思惑のなかでタイと小堀は冥福を祈った。数々の修羅場を踏んで来たタイにも若さの名残りがあり、ミドルと呼ばれる世代に突入するにはまだいくばくかの時間がある。
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