第23話 とっておきの優男・江田三郎への横恋慕 🥰



 小堀と夫婦になって七年の時間が過ぎた。まだ若いといっても三十四歳と三十歳。性懲りもなくタイは薬屋の開業を思いつくが、小堀や周囲の反対で取りやめにする。雑誌『新潮』に小説を依頼されたタイは、じっくり集中して書きたかったが、小堀の政党関係者の来訪が多くて少しも進まないので、駅前の旅館に二日籠って執筆する。


 味を占めたタイは別居を申し出た。しぶしぶ承諾した小堀はアパート、タイは旅館で生活を始めたが、自分で提案しておきながら小森の動静が気になって仕方がない。

小堀に訊いても言葉を濁すようすなので疑心暗鬼になり、留守中に部屋の窓ガラスを石で割って部屋へ入り、行動の証拠となるものを読んで、また窓から帰ったりした。



      *



 このころ小堀には岡山県に国会議員に推したい人物がおり、私小説作家として名の知れて来たタイの「さらに見聞をひろげるため」応援演説に行くように言って来た。そこにいたのがタイ好みの優男で弁が立つ江田三郎だった。もちろん、タイはすぐに恋の虜になり大胆な告白を行うが、妻がいる江田には甚だ迷惑なアクションだった。


「ねえ、わたし、あなたが好きになったみたい。胸がどきどきして止まらないのよ」

「はあ? とつぜんそんなことを言われても……ぼくには妻がいますし、困ります」

「いいじゃないの、好きになるのは勝手だし、自分でもどうしようもないんだもの」

「あなたはよくっても、ぼくは政治活動に傾注したいんで、ほんと、困りますから」



      *



 一方、小堀は小堀で生来の女好きの片鱗をのぞかせるようになっていた。マスターしたドイツ語を教えていた若い女性、ついで映画館の案内係の女性……。とくに後者について小堀はタイを離縁して本気で結婚するつもりだったようだが、勤務している映画館主の愛人であることが分かって、泣く泣く別れる羽目に至ったもようだった。


 タイのじめついた家庭不和をよそに、いっときは頻繁に会っていながらこのころには疎遠になっていた林芙美子は作家として成功し、タイのはるか前方を走っていた。かつての公言どおり、新調のチャイナ服を着てシベリア鉄道でフランスへ行き、家を建て念願の両親を引き取り、手塚緑敏と結婚……自分の力で自分の道を歩いていた。



      *



 それぞれの思惑に追われるうちに時局は戦争へと突き進み、小堀が東京市の市議選に立候補して敗れた昭和十二年七月には関東軍の暴走で日中戦争が始まった。時局も顧みずに「千人針など阿呆らしい」と書くタイへの原稿依頼は激減する。きちきちに行き詰まっていたところへ小堀が見込み捜査で検挙されたので、毎日、面会に行く。


 一か月の留置が済むとタイが病に倒れ、別居中の小堀が看病に通って来たが、小康状態を得たので、円地文子ら女性作家で北海道と東北を訪れる旅に参加した。その年の秋、またしても警察に検挙されそうになった小堀はうまく逃げおおせたが、のちに自首し、伴侶のタイに吐かせるために常宿の女将まで拷問を受ける事態に立ち至る。


 留置場慣れしたタイは体調を崩して体重は半減したが、獄舎の囚人たちから姐さんと呼ばれて牢名主の扱いを受け、畳敷きに数枚の着物を重ね胡坐をかいてすわった。東京に住んでいた次姉タツが幼子の手を引いたり負ったりして差し入れに来てくれ、妹のあまりの痩せ方を心配したが、タイは「半纏を小堀に」と言って聞かなかった。



      *



 円地文子が中心になって「平林たい子慰療会」をつくり、義援金を募ってくれた。出所した小堀はタイのために家を借り、そこでドイツ語の医学書の翻訳を開始する。肋膜炎と結核性腹膜炎の併発で一時は風前の灯になったタイの面倒を見ながら医療費を稼ぐには、これが最善の方法で、月に六百枚を目標に一心不乱に仕事に没頭する。


 そんな小堀にタイは「病人には治る権利があるから、申し訳ないとは思わない」と言い放って呆れさせたが、その小堀にも結核菌が取りついていて、左目を失明する。タイの看病や治療費捻出のための翻訳のし過ぎが原因だと友人たちは言い合い、小堀自身もそう思っている節がないでもなかったが、タイはどうでもいいと開き直った。




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