第5話 無一物だけど男前な山本虎三 🏙️



 独断が板に着いたタイだが、さすがに伝手のない東京の宿は親に頼らざるを得ず、母の従姉が経営する下宿に入ると、ここから丸の内の中央電話局に通勤を開始する。同時に旺盛な向学心を捨てきれないので夜間の英語塾に通い始めたが、同居のやえ子は同じ下宿の無名歌人を訪ねて来る気障な大学生といつの間にか恋仲になっていた。


 出郷から二か月目、ふたりのあいだに早くも亀裂が生じ始めたころ、タイは局からかけた個人的な電話を、やえ子は欠勤の多さを理由に、揃って解雇を申し渡される。体裁がわるくて下宿先には本当のことを告げられず、毎朝、用意してもらった弁当を持って、それぞれ別々に職探しに出かけるうちに、やえ子は知人の下宿に移転する。


 取り残されたタイは切羽詰まり、諏訪高女以来の文通をつづけていた堺利彦のもとに相談に行くと、親切に友人の二六新報編集長・守田有秋に紹介状を書いてくれた。さっそく持参すると、守田も律義に友人からの頼まれごとを果たしてくれたようで、ドイツ人の女性と共同経営する書店・日独商会で働けるように取り計らってくれた。


  

      *



 守田から面接に出向くように指示された初夏の日、日独商会を訪ねてゆくと、歳のころにして三十過ぎかと思われる瘦せぎすのドイツ人女性が待っていて、無言で一冊の本の表紙を指さしてみせた。「えっと、ベ……ベートーヴェン?」覚束なげにタイが答えると、女性は浅くうなずきつつ「明日から来てください」と日本語で告げた。


 いちかばちかで守田に話しておいた「英会話が達者」というハッタリもすぐに露呈したが、べつだん問われることもなかった。店番さえすればいいということらしい。当初は指示されたとおり立っていたが、難しそうな法医学書に熱中する店長に倣い、学者や医師、音楽家など立ち読み客の見張りは椅子にすわったまま行うようになる。


 生真面目なタイはドイツ人店長の信頼を獲得し、店の鍵を託されるようになった。一方のやえ子は恋人の大学生と別れ、郷里へ連れもどされたと風のうわさに聞いた。再出発を果たしたタイにも受難が迫っていた。堺利彦との交流を察知した特高警察が下宿に聞きこみに来たので、母の従姉もタイの行状に眉を顰めるようになったのだ。


 親せきの下宿に居づらくなったタイは、俊彦のむすめで二歳年長の真柄およびその知人夫婦の四人で新宿柏木の下宿で共同生活を営むことになった。諏訪湖をわたって来る北風が冷たく吹き抜ける浅春の上諏訪駅で、無学な父親から精いっぱいのエールを受けて上京して一年も経たないうちに、故郷との鎖は実質的に切れたことになる。



      *



 ある日、いつもどおり日独商会の店番をしていると、すらりとした長身に詰襟服、編上靴で、少し愁いを帯びた面立ちの青年が経営者の守田有秋を訪ねて来た。ひと目見たタイの胸はドキンと高鳴った。いまだかつてこれほどの男前を見たことがない。自分では気づかなかったが、男まさりなタイは無意識に優男タイプに惹かれていた。


「あの、立っていらっしてもなんですから、どうぞ椅子におかけになってください」

「いや、これはすみません。じゃあ遠慮なく……あなたはこの店の店員さんですか」

「はい、このあいだ入ったばかりで、まだ右も左も分かりません。ごめんなさいね」

「あやまることはないですよ。最初からベテランだったひとはいません。はははは」


 待っていても守田がなかなかやって来ないので、書き置きをのこすつもりになったらしく「すみませんが、便所の紙を少しください」そう言って赤くなった青年の質朴さ(らしきもの)をタイはたちまち愛していた。店の奥から黒い繊維が目立つチリ紙を取り出してわたしてやりながら、なんて可愛い人だろう、いっそうの虜になった。



      *



 急速に親しくなった山本虎三から打ち明けられた半生は、まさに波瀾万丈だった。山口県萩の産で、タイより一歳上の十八歳。ダニエルという名を持つクリスチャン。十五歳のとき母親ちがいの兄がいる大連に渡り、プロテスタントの救世軍に通った。下士官になり、さらに上を目指そうと東京への移転を希望して兄宅を追い出された。


 東京では当初、救世軍活動に没頭したが、生活のため就職した会社の記帳係として働くうちに社会主義に目ざめ、文学にも関心を抱いて、キリスト教から遠ざかった。そんな虎三に社会主義活動の同志が力を貸してくれ、少ない給料を補う副業として守田有秋の小説原稿の清書という仕事を斡旋してくれ、そこにタイがいたことになる。


 タイは生来の気質から多分に打算と映る世間並みの結婚に疑義を抱いていたので、学歴も財産も地位もなにひとつ持たない、まったく無力な青年に浪漫を感じていた。一徹で純粋なところがある一方、妙にひねた一面があり、どこへ行っても受け入れてもらえない性癖は、のちにタイが自ら痛い目に遭って覚え知ったことだったが……。




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