第31話 小堀甚二著『小説 妖怪を見た』の化け猫 👻
小堀甚二が自伝『小説 妖怪を見た』を出版したのは昭和三十四年七月だった。
夫の側からの視線で夫婦関係が詳述され、さいごは化け猫の話で〆られている。
タイは「男の風上にも置けぬ」と思ったが、さすがの年輪で鷹揚に受け流した。
執筆より外での活動がますます多くなり、恒例の「文春歌舞伎」にも出演する。
小堀が狭心症で急逝したのはその晩のことだった。練馬の古いアパートで暮らしていた小堀は家族の生活費を稼ぐためにかなりの無理をしており、過労が原因だった。ベルリン時代に生活費の一か月分をもらっていないと秘書に清寿が言って来たことがあったようだが、小堀か清寿のどちらかが嘘をついていると意見が一致していた。
それを物語るように葬儀に訪れたアパートの部屋は貧しくて、家計は小堀が管理し毎月決まった額を清寿に渡していた、缶詰ばかり食べていたという話が身に沁みた。
――二間のアパートの部屋は狭かったから、女や子どもが歩くたびに、遺骸の足がグラグラ揺れた。彼女はその上をまたいで通っていた。無残だった。(中略)小堀を最後にはわたしのもとで死なせたかった。「わたしなら殺さなかっただろう」正直なわたしの気持ちであった。 (『平林たい子全集』喧嘩別れした夫の死)
*
タイにしてみれば、自分のところにいたなら、缶詰より新鮮な肉や魚を食べさせただろうし、出来合いのお総菜など間違っても食べさせなかったという意地があった。
どちらから誘ったのか知らないが(清寿のほうからに決まっているが)、わたしの目をあざむいて人の道に外れたことをするから、罰が当たってこういう結末になった。
自業自得&因果応報を絵に描いたようなシニカルなプロセスだが、あのとき、小堀が家政婦などと浮気沙汰を起さなければ、わたしたちは幸せな夫婦でいられたのだ。そう思うと小堀、いや、虫も食わないような顔をしながら本当は夜叉だった清寿が、いまさらながら憎くて憎くてたまらず、夜も眠れないタイは半病人になっていく。
ひとりの床で太った身体を二転三転させながら、思いの果ては結局のところ自分が至らなかったからという自己嫌悪に帰着する。それがもっとも苦しかった。ここまで生きて来てさまざまなことを経験して、ひとつだけ明白に分かったことがある。何事も他者のせいならず、すべて自分で選んだ道ゆえ、だれにも苦情を言えないのだと。
*
タイはその後も旺盛な文化活動に邁進し、いくつかの病気とも闘って昭和四十七年二月十七日、活動家仲間の市川房枝に後顧を託し、心不全で逝去した。享年六十六。
最初のパートナーだった山本虎三は四十四年ぶりに遺影のタイと再会し、著書に「すべて凡夫の浅ましさだったと反省している。さようなら、たい子!」と書いた。
故郷の諏訪に「平林たい子記念館」が創設されたのは翌四十八年で、「出生地の中洲福島区のためになることを」という生前の希望を養女・手代木新子さんが適えた。
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