第6話 アナーキストとの初めての接吻 🪭



 よって、タイのひとめ惚れをよそに、まわりの視線は山本虎三に温かくなかった。上司であるドイツ人女性がまず「ヤマモト、アナーキスト!!」と毛ぎらいした。同居生活を営んでいる堺真柄やその知人夫婦も「いやな男だね」吐き捨てるように言う。毎晩必ずタイを下宿まで送って来る粘着質にもいい印象を抱いていないようだった。


 日独協会に顔を見せにくくなった虎三は、タイの退社時間に暗がりに佇んで待っており、残業の日はタイを送ったあと長い道のりを歩いて月島の下宿まで帰って行く。

「ごめんね、待ったでしょう。帰りがけドイツさんに用事を言いつけられちゃって」

「いや、大したことない。それに、おれ暇だから、時間だけはいくらでもあるしさ」


「わたしもひとりで帰るよりふたりの夜道のほうが楽しいけど、こう毎日では……」

「まったく問題なし。いまのおれにはタイを迎えに来ることが生き甲斐なんだから」そんな恋人を愛しく思いながらも、あまりに無一物であること、文学を目指すというわりには文章が感情過多で拙劣であることなどの事実もタイは冷静に観察していた。


 周囲の反対があればあるほど若いふたりの恋心が熱くなるのはいつの世も変わらぬ人情の摂理で、タイは愛しい虎三がのめりこむ社会主義へと自らを没入させていく。幼いころから人の言うなりにはならず、小学校でも女学校でも堅物の教師たちをして面倒くさい子と敬遠させて来た性格が、活動家たちにはかえっておもしろがられた。



      *



 ある春の夜、そんな活動家たちの宴席でふざけた先輩から接吻をされそうになったところ、横合いから山本虎三が強引に割りこんで来て、本気の熱烈な接吻におよぶ。

「おいおい、なんだなんだ、これじゃ酒席の余興にもなにもならねえじゃねえかよ」

「おあつい恋愛ごっこはふたりっきりのところでやってくれよなあ、よう、頼むぜ」


「いやになるな、これだからアナーキスト(無政府主義者)は食えねえんだよなあ」

「まったくよ、おれたちボルシェヴィズム(過激主義)とは相容れねえんだよなあ」 タイはあいだに入って困ったが、後年、虎三が書いた本に「男二十に女一の割だったので、不美人でも希少価値があったのだ」という記述を見つけ、鼻白むことになる。



      *



 内心でそんな無礼なことを思いながらも、宴席の接吻を絶好の機会として、虎三は会えば求めて来るようになった。外でもかまわずなので、堺真柄たちの耳にも入り、

「なぜ、山本なの? 男はたくさんいるでしょうに」周囲のだれかれの名前を出して咎められると、タイは「あれはお酒の席のことですから」と恐縮するばかりだった。


 真剣な忠告が聞き入れられないと知った真柄たちの目がきびしくなって来たので、堪りかねたタイは虎三に頼んで京橋に下宿を探し出し、そちらに移ることになった。その下宿の二階にはすらっとした女性記者が住んでいて、ときどき妙に天井が鳴る。不思議で仕方のないタイが店の常連客たちに話すと、いっせいに無知を笑われた。


 守田有秋の清書が終了した虎三は、ドイツ人女性から日独協会への出禁を喰らう。タイはタイで恩ある真柄に義理立てして京橋の下宿へ虎三を入れなかった。もっぱら自ら月島の虎三の下宿を訪ねるのだが、そのたび虎三は熱心に口説いて来る。守田の好意で二六新報に入り、神田の足袋屋の二階に移った虎三はさらに熱く迫って来た。




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