第1章 諏訪高女へ首席で入学
第2話 諏訪郡中洲村の雑貨店 🧼
「おや、おまえ。帳面になにを書きつけているんだね」
「うん、おっかさん。お客さんが来たときの様子だよ」
「様子って……ふん、どれどれ『達吉さん、石鹸一個、野良帰りで地下足袋が汚れている』こっちは『美弥さん、タワシ一個、連れて来た孫の由美ちゃんに紙風船』」。
小言に先んじようとむすめは早口で呟く「だってさ、ああいうことがあったから」。母親は細面の顎をかすかに上下させ、刀で削いだようなひと重まぶたを三角にする。
この子はいつだってこうだ、わたしに相談もせずにさっさと物事を決めてしまう。小学校から帰って来ると、布かばんを置くひまもなく併設の雑貨屋の帳場にすわる。それが自分の役目と思いこんでいる五年生の末っ子の健気が愛しくないはずはない。だが、生来の質に可愛げがないというのか、自分の子ながら鼻白んでしまうのだ。
かつ美はそんな自分の心の動きが少し疎ましかったが、自然な発露ゆえ仕方ない。長女ヒロ、次女タツ、
かつ美の父でタイの祖父に当たる平林増右衛門は進取の気に富み、明治維新の時代の波に乗って製糸業を創業、横浜で直接輸出するなど生糸王国日本の一翼を担った。そのかたわら自由民権運動に共鳴し、急進派の板垣退助が率いる自由党党員になって活動したが、銀相場に失敗して、信濃国諏訪郡中洲村の名主から半小作に転落する。
そのうえ、債権者の追求をかわすため芸者と東京へ逃げたので、置き去りにされた祖母が残務整理を負うことになった。そのとき、負債逃れに土地を親せき名義に書き換えたが、ほとぼりが冷めても返却を拒まれたのでやむなく訴訟を起こし、土地代に匹敵するほど多額の裁判費用と二十年の歳月を無駄にするというおまけまでついた。
にも関わらず、騒動が落ち着いたころ諏訪に帰って来た増右衛門は、留守中の妻と旧知の男性の仲を疑い離縁を申しわたしたので、祖母は長女を連れて実家にもどる。とことん尽くしてくれた糟糠の妻を裸同然で追い出した増右衛門は、手もとに残した次女かつ美を自分の後継と決め家付き娘に養子を迎える。それがタイの両親である。
*
女子にも新しい教育をと考える増右衛門は上諏訪の塾(のちの諏訪高等女学校)に入れて英語を学ばせたので、かつ美は新聞も政治面から読むようなインテリに育つ。
そんな自慢のむすめの養子になったのが隣村の質屋・小泉家から迎えた三郎だった。温厚な夫を妻がリードする若夫婦は増右衛門がのこした借金返済のため懸命に働く。
三女タイが小学校に入学するころ、父は生家の実弟と朝鮮に出稼ぎに行っていた。家を守る妻のかつ美は、農作業のかたわら家を半分仕切って日用雑貨の店を始める。長女と次女も高等小学校を終えると製糸工場に働きに出たので、雑貨店は三女のタイが手伝うようになり、五年生になると母に代わって切り盛りするようになっていた。
といっても家計を賄えるほど利益があがったわけではないが、そこは子どものこと家のために役に立っていることに誇りを覚え、こましゃくれた店主をつとめていた。店番をしながら雑誌『少女世界』『少女の友』を貪り読み、それだけでなく読者欄に投稿して頻繁に採用されたことから、ひそかに自らの文才を恃むようになってゆく。
*
秋風が吹き始めるころ、農作業を終えて雑貨店に顔を出したかつ美が掛売帳にふさわしくない散文的な記述を見咎めたのは、小さな店主ぶりがすっかり板についたタイの独断が目に余って来たからだった。この子はどこまでも増上慢になりやすい気質を持っている。そういう点も山師の増右衛門に似ている。これでは先が思いやられる。
「だってさ」タイは増右衛門にそっくりの分厚い唇をとがらせ、頬をふくらませる。
「だって、子どもだからって甘く見られてごまかされるのは我慢ならないんだもの」
たしかに、盆暮れの集金時に「そんな品物を買った覚えはない」と突っぱねられて口惜しい思いをしてはいたが、商いの必要悪と考えるようにして胸をさすって来た。かつ美としては村内で事を荒立てたくなかったのだが、負けん気の強いタイは地団太踏んで無念がり、証拠として販売時の情景も記録しておこうと一計を案じたらしい。
小学校でも群を抜いて綴り方が得意な子の懸命な対応策ではあったろうが、まずは母親の自分に相談があってしかるべきだろうに。かつ美はそこにこだわる。ちなみに明治三十八年十月三日生まれのタイは、当時の日本で一番有名な女性にあやかったという名前を喜びとしていたが、のち桂公爵の妾(芸者のお鯉)と知り意気消沈する。
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