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β1:懺悔の手紙<about me>
人は守るものではなく、支えるもの。
そう教えてくれたのは、この世でたった一人。
親から一言も語られなかった愛を。心に、身体に。消えない匂いを染み込ませた、彼女だけだった。
誰の愛も受け入れられなかった僕の身体に、恋と血を一緒に流し込んだ彼女だけだった。
自分が五歳の時に生まれた双子の弟妹は、母の腕に抱かれたことがない。満足にモノを見る事さえできない二人を抱いていたのは、僕の細く骨ばった腕だった。
平仮名しか読めないなりに、必死に言葉を調べて、一冊しかない子育ての本を、文字が掠れるまで読み返した。
湯を沸かし、粉ミルクを溶かして。イマイチ意味の分からなかった人肌という温度を探った。数を数えてる時間はなかった。
それをやっている暇があったら、漢字をの読み方を覚えていたからだ。そんなことをしているくらいなら、母を怒らせない方法を考えていたから。
そんな日々が続いていたある日。誰が通報したのか、警察と保護団体が家に来た。その人たちが厚手のジャンパーを着ているのを見て、季節がいつの間に冬になっていたのを知った。
母だと思っていた人は大して反抗することもなく、ゆっくりと煙草を吸い切ってから、警察共に家を出て行った。それから、保護団体の大人に連れられて、僕と双子は施設で暮らすこととなった。
施設での生活は裕福ではなかったが、不自由はなかった。長らくその地に住んでいた老父が建てたらしく、近隣との関係も良好で、その地域自体が保護者の役割を担っており、古き良き、人情の溢れる施設だった。
双子の弟妹もそこですくすくと成長していった。弟の方は想像力が優れており、自作の歌や絵本を披露しており、住民もそれを楽しんでいた。
妹は学ぶこと、頭を使うことがとても好きで、4歳の時には簡単な数字の計算ができた。元数学教師だった老婆に勉強を教えてもらうのが好きで、まるで本当の祖母と孫のような関係で、とても可愛がられていた。
親を知らないことが、双子にどれだけの不幸を呼び込んでしまうか。幼いながらに、僕は兄としてそれが何よりもの気がかりだった。
そんな心配を余所に、弟妹は健気に真っすぐ育っていった。
そんな姿を見ていると、むしろ親を知らないでいてよかったと思えた。知らないからこそ、双子は大人を疑わないでいられた。
順風満帆。その言葉の体現のような日々。
しかし、平穏は少しずつ崩れていく。
ある時を境に夢を見ない夜が増えていった。そしてそれと比例するように、責任とも罪過とも言えない感触の流体が、心臓の縁を激しく這い回るようになった。
僕と双子。育児放棄の現場にいた三人全員が、漏れなく幸福に暮らしている。流体は、その現状を疑うよう、僕の血流を操作した。
母親の呪縛か。ませたガキの背伸びか。僕という人間の傲慢か。
何れにしても言えることは、僕には救われる為の準備が無かった。
大して賢くもない五歳の男の子が、妹と弟の為に、習ってもいない漢字を読めるようになり、感じたことのない人肌を、矮小な脳が熱を持つまで考えた。
対して、人の善意を受け取ろうとすると、筋肉が痙攣をおこした。
声が上ずって、心臓が壊れたメトロノームみたいに不整脈を打ち、呼吸が荒れる。
施設の大人は口癖のように何度でも、僕に素直で居ていいんだよと、優しく声をかけてくれた。
僕はそんな彼女らのことも、施設に出入りする近隣の人のことも信頼していた。離れてからの時間の方が長くなった今でも、胸を張ってそう言える。
けれど、素直になればなろうとするほど、僕は大人の眼を見れなくなっていった。
僕はきっと、人を助ける準備だけを持って産まれてきた。そしてそれの出番は、言語が体に染みこむよりも早く訪れた。
夢を見れない時間で、僕は画質の悪い朧げな過去を、無限に回想し続けていた。
そうして僕は、僕の中にある器の形を理解した。
それは才能と言ってもいいのかもしれない。けれどその器は、今も昔も、僕からしたら無粋で不格好な失敗作にしか見えない。
僕は他人を受け入れられない。他者の善意を、愛情を。
理性が察知できるからこそ。才能がもたらす結果は、不幸と、文字通り隙間があるという意味の不満ばかりだった。
だから僕は、感じた不幸を全て心の中に、ゴミを貯めるように放り込んで行った。不幸が貯まっていけば、ほんの少しの幸福で満たされたように錯覚できる。
フォルミーカ学堂と同じだ。上澄みの見栄えさえよければ、その下に何があるかは関係ない。
実情がどれだけ血みどろだろうと。
例え腐敗した不幸の掃き溜めであろうと。
他者にはいい表面を見せていれば、勝手にそれに付随したイメージを夢想してくれる。
もう永らく夢を見なくなった。それよか、眠ることも少なくなっていった。物思いに耽ることもなくなった。
お陰で、ただ一人愛してくれた彼女の顔も、今はもう思い出せない。
だけど、不意に香ってくる匂いは紛れもない彼女のモノと分かる。アクシデントのように、唐突に襲ってくる人恋しさに、彼女の霞むような肌の温度を求めてしまう。
地下に来てから。取り返しがつかなくなってから。
僕はただ一人、助けて欲しいと思える人がいたことを知った。
今は何処にいるかも分からない弟妹は、僕に兄としての役目をくれた。
無償で愛してくれた大人は、僕に恵まれない才能の姿を見せてくれた。
僕は、彼らを憎んだりなんてしていない。僕らはきっと、そういう
繋がらない星々。暗闇より深い時間を隔てた、別々の星座。
目的地の入り口。その真後ろにある鉄線で編まれた塀。
眼で見えて、触れ合っていて。けれど迎え入れることはできない。
僕ならそれを歯痒いと言う。繋がり合っているのに受容出来ないことを、申し訳ないと思う。
でも彼女なら。きっと自嘲的に笑いながら、悲しいロマンスだねと言うだろう。
悲しいだけじゃない。きっとそこには。惚れ溺れてしまった甘い幸せがあるのだと。
切ないのは、辛くないのか。
僕が彼女にそう問うたのは、一度や二度ではなかった。
それに対し、彼女は毎回、そりゃあ辛いよと、遠くを見ながら答えてくれた。
そして一緒に、それは幸福から逃げる覚悟を決めた証だから、と付け足す。
別れは寂しいモノで、一歩踏み出すための勇気もまた、寂しんぼ。
だから切なさを一緒に連れてきてしまう。いつか寂しくなくなるのは、勇気が自分で立てるようになったから。
辛いの字も、幸せの字も大して違わないのは、きっと裏表の関係だから。
どんなに辛くても、何かの拍子で幸せになる。同じように、どれだけ幸せでも、何かの拍子で辛くなったりもする。
その境界線は、コンクリートでもレンガブロックの壁でもなくて、シャボン玉くらい脆くて、向こうが透けて見えるくらいの、薄いもので出来ている。
人間の身体は、機能的にとても良く出来ていると思う。でも同じモノの中にあるのに、理性や価値観や意識だったりは、曖昧に出来てる。
人間って生き物は、不完全に寄り添って生きている。弱点を伴って存在している。だから、アンバランスなくらいがむしろ正常なんじゃないかな。
課題は、そんな自分を、どう思うか。
まぁ、他人様のそんな深い所まで、首を突っ込むつもりはない。
けど、私が
自分のことを、好きであって欲しいかな。
その方が、きっとハッピーだと思うから。
その為なら、君の荷物を多少背負うことくらい、吝かではないし、バッチこいって感じ。
自分のことを助けてあげられるのは、本人だけ。
だから、コミュニティだったり縁だったりがあるんだと思う。人間は種族として、支え合いが必要な生き物なんだと思う。
助けてもらって、楽をして、見つめ直して。自分を助けるだけの体力と気力を養う。
だから私も、君に倣って。君を救うことはできないけど、誰かの荷物を一緒に持ってあげる。それくらいは、やりたいと思う。
その行為を。あなたから教わったそれを、私は愛だと思ってるから。
風に乗って香る、ナニとも言えないその香りに混ざりながら。彼女の言葉だけが、これまで何万回も頭の中で繰り返されてきた。
そしてその度に、心臓に液化した太陽のような幸福が満ちる。けれど同時に、僕は僕の生き方を否定したくなった。
君の言うハッピーの感覚は未だに分かりきらないし、表面の取り繕い方だけが上手くなってしまった。君の真意も、真髄も、まだ朧気で、触れられないまま。
だらしないまま惰性で歩き続けて。そうして行きついたのは、誰の敵でもないけど、好意的な存在でもない。僕はそんな宙ぶらりんな、ロマンスの欠けたバランス人間。
ごめん。あれだけ愛してもらったのに。
結局僕は、食わず嫌いなまま。
だから、こういう結末に辿り着いても、驚きはしなかったよ。
誰にも見られない場所で、扱いにくい部下から銃口を向けられて。
そして僕は、張り付いたほくそ笑みのまま殺される。そんな終わりを、僕は滞りなく、享受出来そうだ。
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