3.2 濁流であろうと呑み干して

 寂々で薄暗い、冷ややかな空気を溜め込んだ階段。

 かき回す空気の揺れがないせいで、微かな足音までも反響し、頭上の暗闇へと上っては消えていく。



 イヅモが風呂から戻って来るのを待って、入陽は寮部屋を後にした。

 泊まっていっても構わないと言われたが、あんな話を聞いてからでは、あの場にいることは苦痛でしかなかった。

 精いっぱい、なんにもないフリをして出てきた。



 そう思わせるために、わざわざ、言いたくもない嘘までついて。




『イヅモちゃんと一緒に寝るなんて、それは夜伽のシーンってこと!? だから私をお誘いするような惚れ香フレグランスを立ち上らせているの!??』




 嘘だ。



 風呂上がりのイヅモは、まるで匂いも丸ごと洗い流してきたように無臭だった。何の匂いもない、プラスチックみたいに無機質だった。



 あれは、きっと癖なのだろう。匂いのひとつですら、業務によっては致死に値する弱点になる。だから全て洗い落とす。彼女イヅモがより生きるために。




『それに家族で安心して一緒にいる時間は、さすがの私でも邪魔したくないよ!! さらに言うと! イヅモちゃんと寝るなら尚のこと二人っきりの閉鎖空間がいいな!!!』




 これは紛れもない本音だ。入陽わたし好きな人イヅモちゃんと寝るなら、誰にも邪魔されない二人だけの密室がいい。

 そこがもし、何をしても出られない部屋だったとしても、入陽わたしは許す。むしろウェルカム。




 だけど、この想いが。裏表のない、善良で公正な誠意が。右から左まで全て澄んでいるかと聞かれれば、決してそうではない。





 家族水入らず。毎日命懸けのイヅモにとって、その時間が何よりも大事な時間であることは明白だった。




 だから、そんな貴重な時間に自分を招いてくれたのは、とっても嬉しかった。





 だから、とっても居づらかった。

 私が居ていい時間だと、私が納得できなかった。





 だから、邪魔をしたくなかった。

 というより、一刻も早くあの場がに戻って欲しかった。




 イヅモちゃんと、繕くんと、万くんの三人。

 血より、魂より深いところで繋がっている三人の何気ない空間を、歪めたくなかった。




 九重家のみんなは、とっても強い。地下そこらにいる大人なんかより、よっぽど。

 だから、入陽わたしみたいな女一人受け入れるくらい、ワケないことだろう。



 けど私が入って、九重家という集団が、新しい形に変わっていく。

 そんな様は見たくない。


 九重家が私を包み込む。

 そんな愛みたいな優しさには、飲まれたくない。




 繕くんと万くんが出迎えることが無くなるくらい、当たり前の存在になる。

 そんな身近な存在に、私はなりたくない。



 出しゃばりで、傲慢で、先行き過ぎで、過度に加速して歪んだ妄想。

 いつもなら、イヅモちゃんに話してツッコまれて昇華できた。

 でも、この想いだけは伝わってしまってはいけない。



 だって、これは恐怖だから。

 大好きな人が、大好きな人。

 その全て。肌を包むように暖める熱。

 イヅモを構成するほとんどを、恐れているということだから。




 あの家族は、あれが至高で完成系で、誰もあそこに入るべきじゃない。



 まだ幼かったイヅモちゃんが、必死になって守り、残してきた場所。

 まだ小さかった繕くんと万くんが、幸せになるために整えた、安心して蛹になれる場所。



 自由でない中で、三人が作り上げてきた、特別な空間。

 とっても安心できて、とっても明るくて、とっても暖かい。



 その温もりが、私の身体を蝕む。

 その柔和が、私の心根を犯してくる。





 痛いよ。イヅモちゃん。

 あなたの幸せに入り込むのは。



 怖いよ。繕くん、万くん。

 貴方達が笑う、憩いの場に招かれるのは。




 私がこの世に生まれて、貰った袋は、あなた達の色を詰めるには汚らしすぎる。



 飛び出してて、引っ込んでて。

 病気みたいに歪んでて、血塗れで。

 鉄と生ゴミの腐った匂いが染み付いてる。




 こんなモノ、繕くんにも万くんにも見られたくない。




 記憶に遺して欲しくない。視界にだって入れて欲しくない。

 こんな汚いのは、私だけが持っていればいい。




 頭の先から、冷気が身体に侵襲してくるように、血管に冷気の道が通る。

 身体の末端が、段々と冷たくなっていって、麻痺していくのが分かった。




 その冷たさを握りつぶすように、入陽は掌に指を丸め隠す。




 イヅモちゃんと私の生い立ちは同じじゃない。

 それは別の人間なんだから、当然のこと。




 親に捨てられた記憶は、私にはない。

 けれど、今の大魔女ははおやに愛されていた自覚もない。

 姉弟なんていないから、私は親が居ても孤独だった。




 家族も、友達も、憧れる人も、守りたいと思う人も。

 捨てられるまでの10年間。地上にいた10年間、イヅモちゃんにはいたはずだ。




 イヅモちゃんはきっと学校で……いや、その県で一番のカワイ子ちゃんだったろう。敬愛も嫉妬も持った、色んな人が周りにいたんだろうな。



 それらは、全部私にはなかった。

 それらを失う経験もなかった。



 それでも寄り添えるとは思ってた。

 別々の道を歩いていても、手がつなげるくらい。

 同じじゃなくても。すごく近い隣の道を歩いていけると思っていた。




 でも、その道はイヅモちゃんの両手は、既に二人の男の子が手を繋いでいる。




 その席を。一目惚れした人イヅモちゃんが命より大事に思っている彼らの席を。

 私は、奪えるだろうか。



 もしイヅモちゃんが私にぞっこんになったとして、その手を放すだろうか。



 そもそも、共に歩きたいのだって私のエゴだ。

 本能の私が、イヅモちゃんに惚れた。

 その直感を信じた。その想いに間違いはなかった。

 初めて、イヅモちゃんを見たあの時から。

 武器を持ちながら雨に打たれて。


 暴走した妹の命を目の前で奪って。

 弟さんたちと一緒にご飯を食べて。

 大魔女ははおやを恨んでるって、わたしが聞いて。



 それでも、ずっと、ずっと、ずっと。





 変わることなく、私はイヅモちゃんが大好きだ。

 爛れようと、穢れようと、憎まれようと、恨まれようと。


 理由なんてない。言葉なんていらない。

 私はイヅモちゃんが大好きだ。

 イヅモちゃんの大切なモノが大切だ。

 この気持ちに疑いはない。

 この気持ちに邪念はない。

 胸を張って、自身を持って。

 何処でだって、誰にだって言える。




 イヅモちゃんが好き。

 抱きしめたい。

 包み込みたい。

 同じ布団で眠りたい。

 何を話すわけでもないのに、ただずっと手を繋いでいたい。

 華々しく散ることになってもいい。灰色になって枯れてもいい。



 死ぬまで一緒にいて、死ぬときは私が先。

 きっと二人揃って地獄に行くだろうから。

 先に地獄を見て回って、あとから来たイヅモちゃんを案内する。

 死んでから最初は、そんなデートをする。



 でも、イヅモちゃんは、そんなことをしている暇はない。

 死んでる暇なんてない。生きている間も無駄にしてはならない。

 いまのイヅモちゃんには、やらなければいけないことがある。



 死に物狂いで、生き急いでる。




 繕くんと、万くんに目一杯の教養と、知恵という名の栄養を与えること。




 そして、彼らを紛れもない陽の光の下に送り出すこと。

 芽を出すことも困難で、出したとてに見つからない。




 そんな場所から追い出す。色んな人が見つけてくれる場所に置いていく。




 あの二人に必要なのは環境だけ。

 陽の光を浴びることのできる場所さえあれば。

 そう言い切れるまで、イヅモちゃんは二人に残してる。



 それこそ、二人が地下ここを巣立った後。

 自分が、いつ死んでもいいくらいに。




 けど、断片的であれ、地下のことを知っている人間を、制限無しで追い出すとなれば。



 イヅモちゃんは、本当の意味で傀儡になる気だ。

 今は守ることと、従うことの間でバランスが取れている。

 だから、あんな強さがある。

 だから、あの強さをギリギリの状態で維持できている。




 けど、イヅモちゃんは手放そうとしている。

『自分が』でもあり、『自分を』でもあった守る存在と送り出すのと一緒に、魂も命も使い捨てようとしている。




 生きる気力なんて、さらさら求めていない。

 繕くんと万くんと離れた時点で、イヅモちゃんは目には見えなくとも繋がっている糸を、自ら断ち切る気だ。




 今が、イヅモちゃんにとって、最後の、自分が幸せでいられる時間。

 それが終われば、誰かの幸せを、静かに願いながら、踏み躙られる時間が来る。


 その一線を越えてしまえば、イヅモちゃんの幸福は、そこで終わる。

 イヅモちゃんは、それをきっと幸せで、義務だって言う。




「そんなの、私が許さない」




 入陽は階段を駆け上がり、地上階の扉を開ける。

 廊下を直進し、壁に靴跡を残した角を曲がって、さらに突き進む。



 日中は学徒で窮屈になっている食堂も、食器の当たる音もなければ、照明も全て落ちているため、青暗い空間に賑やかさは欠片もなかった。




 ただ、厨房の奥から木漏れ日のような細く淡い光が溢れているのが見える。




 恐らく、あの人はあそこにいる。大事なモノは、人の眼につく場所にこそ隠すべき。あの人自身が、昼間にそう言っていた。




 食堂と厨房を隔てるカウンターを飛び越えて、光が強くなる方へと向かっていく。



 掃除用のホースを跨いで、4つ口のコンロが目の前の現れた時。

 その上部に吊るされた幾つかの料理器具の隙間から、彼方を覗くような眼差しで、コーヒーを楽しむ男がいた。




「おや、こんな時間に学徒が出回っているとは。カメラに見つかったら厳罰ですよ?」


「お気遣いどうも。けど、もしカメラがちゃんと動いているなら、あなたも此処には来れません」


「さすが、我々のボスの娘さんです。よくご存じで」


「えぇ、色々知ってますよ。地下ココのカメラの数も、あなたがそれらのデバイスに、痕跡も残さず、不正にアクセスできることも」


「それは……脅しですか?」


「交渉です。私の為に、協力してください」




 肉体の役目を陰に託して。

 入陽は、髪を下ろしてより死人のようになった加々宮に向けて、銃口を向けた。


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