3.0 芽吹けぬ種に愛を込めて

「おねえちゃんおやすみー」



「おー、おやすみー。繕―、万寝るみたいだから任せたぞー」



「はーい、僕も寝る準備できたしそのまま寝るよ。入陽さんも、おやすみなさい」



「はい、おやすみなさい。ゆっくり休んでください」



 机を拭く入陽に繕は会釈をして、隣室とリビングとのはざまの襖を閉める。


 さっきまで賑やかだったリビングも、今はシンクに流れる水流と、陶器の触れ合う音だけ。覚えたばかりの温度が、冷めていくのが分かる。けれど、決して寒くない。

 イヅモと入陽の二人だけ。二人だけが居やすい、適温に変わっていく。



 机を拭き終えた入陽は、カーペットに落ちた食べ残しを拾い集め、台所にあるゴミ箱へ捨てに行く。イヅモはエプロンの付けたまま、黙々と皿を洗っている。



(こ……このシチュエーションは、もしかして……!)



 エプロン姿で皿を洗う夫(妻)。その隣で手持無沙汰な妻(夫)。

 先にお風呂に入って身は清めた。

 小さい子どもたちは、となれば、やることは一つ!!



 台拭きを洗うふりをして、イヅモの後ろのスタンバイする入陽。

 大きく腕を広げて、ゆっくりと身体を近づけていく。



 大丈夫、セリフも分かってる。低い声で囁くように言うのが良いって書いてあった! いざゆかんバックで愛深いえっちなハグ!!!!




 "コンッ!!!"



 いざ抱擁! と、接近した入陽の額に、陶器のコップの底が衝突する。



「背後に立たれたら、反射で反撃するのが学徒わたしらだ。つもりなら正面から来い。そっちのほうがまだ容赦できる」



 額を抑え、小さな涙を浮かべる入陽を余所に、全員分の皿を洗い終えたイヅモは、エプロンの紐を緩め、結っていた髪をほどく。



「もー、そんなに警戒しなくてもいいのにー。ほら! 同じ釜のなんとやらって言うじゃん!」



「お前が他人ヒトから出された物を何の疑いもなくバクバク食ったからな。そりゃ警戒もするわ」



「お米足りるかな、とか?」



「実は宇宙人みたいなバケモノなんじゃないかってことをだよ」



 座布団に腰を据えたイヅモは、背後の本棚から大きなファイルを取り出す。中から取り出した見慣れない書類に頭を掻きながら、イヅモはペンを走らせる。入陽はその正面に腰を下ろして、その書類を覗き見る。



 紙の頭には、『入学手続納入金』と共に、『聖エラルメリア学院』の文字が記載されていた。



「イヅモちゃん、転校するの?」



「この環境で出来るわけねェだろ。これは弟達の書類だ」



「弟達って、繕さんと万さんを上に?」



「そうだよ。その為に今まで業務してきたんだ」



 何事もないように言うイヅモに反し、入陽は目を剥いて驚く。



「で、でも弟さんたちも地下のこと知ってるんだよね!? なら自由に地上そとに出れるわけ……!」



「でけぇ声出すな。アイツらが寝れねぇだろ」



「ご、ごめんなさい……」



 肩を窄める入陽に、イヅモはペンを置いて台所へ向かう。



 フライパンを仕舞っていた下の戸棚の奥に手を突っ込み、ガサゴソと何かを探している。やがて、小さな紙箱を引っ張り出すと、そこから一本、細い棒を口元に運んだ。



「イヅモちゃん、それ煙草?」



「そうだよ。未成年だとか言うなよ? 普段から吸ってるわけじゃねぇ。これだって、ほぼ一年ぶりだ」



 コンロから火をくすね、ダーツの矢のように煙草を摘まんで、煙を吸うイヅモ。



「いや、未成年だし身体にも悪いから辞めて欲しい」



 至って真面目に、煙を止める入陽。



「言うなって言ったろ」



 換気扇に飲みこまれていく白煙が、僅かにあぶれてくうに霞む。

 残像のように虚ろ気な煙の残り香。そのほんの少しの煙草の匂いに、入陽の鼻は敏感に反応した。



「その煙草、お母さんと同じ匂いがする」



 入陽は何の気なしにそう言う。それに対して、イヅモは何ら驚いた表情も見せず、煙を吸い込む。



「……よく分かってんじゃねえかよ」



 短くなった吸殻を握り潰したイヅモは、すぐ二本目を取り出し、再びコンロに火をつけた。



「これが、アイツとの契約だ。アイツのことを、私が親同等に嫌ってる理由だ」



 汽車のように、煙を上らせるイヅモの眼は、煙にやられてか、何処か潤んで見えた。





 ────────





「言った通り、あなたの命がある限り、あなたの弟君たちの命は守ってあげる」



 デスクに座った女の顔を、背後にある窓のような照明が影にして隠す。髪も乾かさないまま連れて来られた地下の空間には妙な圧があって、耳の奥で血流が轟音を伴って巡り、全身の筋肉を削っている気がした。



「ただ、ちゃんと条件を言ってなかったわね。それだとフェアじゃなくて気分が悪いわ」



 そう淡々と話す女だが、その声は、ただそういう文章を言ってみただけのような、軽薄で浅はかな色をしていた。



「『あなたの命がある限り』って言ったけど、あなたの命がが、私にとっては何よりも大事なの」



「アンタの家に寝泊まりしろとか言いたいの?」



「そんなの私から願い下げよ。部屋は用意してあげる。三人で住むには手狭でしょうけど、あなた達3人だけの空間はちゃんと用意してあげるわ」



 それに、男の子って五月蠅くて嫌いなのと付け足して、女はデスクから一枚の用紙を取り出す。

 人差し指で宙に押し出されたその紙は、振り子のように揺れながら静かにカーペットに沈んでいく。



「それは、弟くんたちを守るために、あなたが放棄する物を示した契約書よ。お子様には難しいでしょうから、噛み砕いて教えてあげるわ」



 胸ポケットから取り出した煙草に火を灯すと、暖色に照らされた女の顔をがじんわりと浮かび上がる。

 その整った容姿は彫刻のようで、気持ち悪いほど、同じ人間の顔とは思えなかった。



 イヅモは床に落ちた紙を摘まみ上げ、中身を確認する。



 知らない漢字に、難しい文章。10歳の年端の行かぬ少女に読み解くには、到底難解な代物。

 だが、この何が書いてあるのか分からないこの文章を、イヅモは女が説明するのに合わせて、必死に眼で追った。



「弟くんの生活の為に、あなたにが守らないといけないのは6つ」



 ・フォルミーカ学堂の学徒となること


 ・学徒に課せられる講座及び業務について、一切の抵抗をしないこと


 ・学堂側の指示した場合を除いて、地下に於ける地上階以上への出入りをしないこと


 ・これらの条項に違反した場合、如何なる理由があろうと、保護対象を即刻処分する


 ・イヅモが有用でないと学堂側が判断した場合、保護は即刻打ち切られる


 ・以上の条項を、保護対象に開示しないこと



「大まかにはこんなところね。三つ目に関しては学堂うちの原則でもあるから、実質的には五つ守ってくれれば、私を含めて誰も文句は言わないわ」



「……この、講座と業務っていうのは、なに」



「講座は学校の授業、業務はアルバイトみたいなものね。どっちもスケジュールはこっちで組むから、あなたは何もしないでいいわ」



「じゃあ、その2つで、私が有用かどうかを判断するってことね」



「それは断言できないわ。でもまぁ、形式上講座は成績を数字で出すから励んで損はないし、業務も成功を重ねれば、無用だと思われることはないでしょうね。少なくとも、私はそうする」



 いま、この女はイヅモと会話をしている。なのに、一切視線が交わらない。決まったテキストをそのまま読んでいるだけのよう。

 味のしないカレー。動物の剥製。その形を象っているだけで、意思も、意思を込める器もそこにはない。なのに言葉はそこにある。



 憑依じゃない、実態のある幽霊がそこに佇んでいるような言葉交わしに、イヅモは表現できない違和感を覚える。



 女の吐き出す、細く揺蕩う白煙が、光背に透かされながら消えていく。

 灰皿に捻じり押し付けて火を絶やすシルエットは、入り込んできた虫を、押し潰し、殺しているようであった。



「要は、アンタ以外の指示で地下ココから出ず、アンタの言いなりに動いて、そのことを弟達に言わなければいいのね」


「理解が良いわね。ホント女の子は、小さい頃から聡い子が多いから好きよ」



 背もたれの大きい椅子に腰を下ろし、二本目の煙草に火をつけた女は、内ポケットから万年筆を取り出す。



「異議がなければ、そこに名前を書きなさい。尤も、自由を捨てる勇気が湧かなければ、断っても構わないわ。その時は姉弟きょうだい共々、またあの路地に捨て直してあげる」



「必要ない。あの子達が生きれるなら、私の自由なんか幾らでも捨ててやる」



 イヅモはデスク越しに女と向き合うと、差し出された万年筆を奪い取る。



 ここで名前を書いてしまったら、もう後には戻れない。




 視線を集め、老いも若きも惹き込むカリスマとは違う。自身の存在感が視線を奪い取り、空気の流れさえ我物顔で操り、誰も彼も、何もかもをを引きずり込む、重力に似た魔性。



 もしイヅモの想像通り通りの女なら、コイツはきっと、私を飼い殺すつもりでいる。

 仮にそうならなかったとしても、私はもう地下から出られない。それは直感できた。




 でも、それでいい。



 なら、これ以上の幸せはない。




 だって、私が交わした契約は私に関してのことだけ。




 私が地下にいて、従い続ける限り、あの子達は何物にも制限されない。




 あの子達は、自分の人生を、自由に生きていける。

 それさえあれば、私の身体は、不幸を喰って生きていける。




 心に頼るのは、もうやめよう。

 脳と身体と技術と。表出できる強さを極めよう。

 それさえあれば。それさえ残せば、あの子達を自由に出来る。



 でも、その為にはまだ足りない物が多い。

 まずは金が要る。あの子達が自由になる為の金が要る。

 それから生きる術。仕事は教えられない。ならせめて知識を残そう。

 その為に、私が何よりも強く、秀でよう。



 日の出のない、日のらないこの地下でも、強い種に育てよう。



 再び明かりを浴びた時、その種は一気に芽吹く。

 それだけの栄養と強さを、あの子達に遺そう。

 遺せるだけの知識と経験を、私が身に付けよう。


 そうすれば、きっと業務やら講座とやらの評価もあがる。

 もっと、あの子達を確実に守れるようになる。

 守っている間に、守り方を教えられる。




 デスクを挟んで、向かい合うイヅモの顔を、青白い照明が照らす。

 視界が白く潰れそうなほどの明光。それなのに、どうしてか。

 その瞳からはハイライトが消え、代わりに影が深くなっていた。




 嘲るように微笑む魔女の眼の方が、明るく見えてしまうほどに。




「命も自由もアンタにくれてやる。アンタも代償を忘れるなよ」



 名前を書きなぐった契約書に向けて、拳を殴りつけるように筆先を叩きつける。

 デスクに斜に突き刺さった万年筆から、粘度のあるダマが、絞り出すように溢れた。



「代償だなんて大げさよ。仕事はリターンの与え合い。そのリターンに見合うだけの仕事を、私もあなたもするだけよ」



 ようこそ。フォルミーカ学堂へ。



 そう付け足して、大魔女は加えていた煙草の残りを、イヅモの口に差し込んだ。

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