2.9 純水が歪む

 何処かから香ってくる脂の香りが鼻孔をくすぐり、それに誘発されて、腹が快活な呻き声が上がる。

 自らの腹の音に起こされ目を開けると、映ったのは年季の入った机の脚と、色白で卵のような膝頭。



 毛布を避けて身体を起こす。向かいには、先刻お茶を出してくれたヨロズが、辞書ほどの厚さのある本を読んでいた。



 随分と集中しているようで、私が起きたことにさえ気付いていない。邪魔してはいけないと思い、静かに眺めていると、台所の陰から。もう一人男の子が姿を現す。



 此方に気付いたその子は、エプロン姿で火元に立つイヅモちゃんと二言三言交わすと、万の隣に静かに、腰を下ろす。

 年齢は、恐らく二つか三つ上だと思われるが、その所作には年齢に見合わない落ち着きがあった。


 刈り込みのない、短く揃えられた髪に、銀縁のアンダーフレームの眼鏡。万にはイヅモの面影を感じたが、この子にはそれがない。

 友人、他人、恋人。そう言えるほど、彼とイヅモには似通った要素がなかっ……た────




(こ、こここコこコko、恋人ですとぉぉぉぉぉぉおお!!??!?)



 急激な同様。思考に対する問いかけ。自分で例えておいて何言ってんだ、という自業自得の語と似ているようで似ていない、その亜種的な感情。



 寝起きのせいか、頭の状態がハッキリしない。動揺を隠すように毛布を畳みながら、再び眼鏡の彼の方に視線を向ける。

 見れば見るほどイヅモとことが分かる。同時に、暴力的なまでに整った容姿であるということも。


 長く濃いまつ毛に、彫刻のようなラインを描く鼻筋。細い顎、薄い唇は淡いピンク色をしており、まるで重力でも持っているかのように、視線が引き込まれていく。



(これはぁ、うーん、ぐうの音の出ないほどのイケメンだぁぁ……)



「イヅモちゃんを、どうかよろしくお願いします」


 指をついて頭をフローリングに額を当てる入陽。


「……姉さん、この人ホントに大丈夫な人?」



 初対面でいきなり頭を伏してきた他人に怯え、震える声で台所の方に声をかけるイケメンの彼。



「大丈夫かどうかで言ったら否だな。でも乳はでかいから、セン貰っておけよ」



 無礼を躊躇わないイヅモ。



「そんな不埒で淫ら代表みたいなの良くないと思うけど!?」



 身内だからこそ気付きにくい品性もきちんと疑える系の真面目なイケメンの彼。



「にーちゃーん、『ふらち』と『みだら』ってなーに?」



 聞かないで万さん。そんな邪な言葉をあなたの口から言わないで。



「……というか、いま姉さんって言いませんでした!!??!?!」



「いきなりそのテンションに入んのやめろ!! 情緒どうなってんだ!!」



 そう言い放ったのは、イヅモではなく、眼鏡を掛けた彼だった。



 セリフと声が合わず、あの入陽が困惑する。



 繕と呼ばれた彼と、イヅモの顔を反復横跳びして、すぐにイメージを改めて対応する。

 前言撤回。確かに、この子の容貌はイヅモちゃんと似ていない。けど、この感じはすごくイヅモちゃんだ。音のトーンといい、声の出し方といい。



 この一回だけでも分かる。この子の器は、イヅモちゃんが作ってる。



「え、ってことはイヅモちゃんの彼氏じゃない?」


「誰がいつ彼氏いるって言ったよ」


「ないけど、ワタシが男だったらほっとかないし」


「お前今でもほうってないだろ」


「そりゃもちろんだよ! なんたってイヅモちゃんは運命の人ですから!!」

「……姉さん、ホントにこのヒト、大丈夫な人?」


「ごめん、セン。謝る。ヒトじゃないかもしれないわ」


「そこから!?」


「ってことで夕飯にするぞー。一条はこっち来て皿運んで。万は皆の箸と座布団持ってきな」


『はーい!』


「繕はテーブル運んどいて」



 2人、偶然揃った返事と、マイペースな姉。

 芳しい香りが部屋に充満していく中で、繕だけが額を抑えた。





 ──────────────






「なるほど。つまり一条さんが姉とコンビを組んでて、一緒に仕事をしていると」


「そうなんです。つまりイヅモちゃんの一番近くで、イヅモちゃんの美しい姿を見ている訳ですね!!」



 豚の生姜焼きを頬張りながら、入陽は渾身のドヤ顔を見せつける。初めて会うタイプの人種に最初こそ訝しいと思っていた繕だったが、この髪の長い姉の同僚が、危険な人でないことは、この数十分で理解できた。



「それにしても、イヅモちゃんに弟さんがいるなんて知らなかったよ~」



 知っての通り、学堂の学徒は元捨て子や売られた子を、大魔女が拾ってきて育てている訳だが、そこに男は存在しない。


 唯一いる男は指導員のみ。彼らも元はイヅモのように身寄りを失くした子だったという噂だが、その真意は定かではない。ただ少なくとも入陽がここに来てから、男の学徒が入ってきたのは、一度として見たことはなかった。



 そのため、他に同じ境遇を持っている学徒がいないと仮定するなら、彼らは学堂内で唯一の、男の子どもである。

 今年17になるイヅモ。繕はその2つ下の15歳、万は5歳だという。



 カッコいいと可愛いと総取りするような二人の容姿にばかり気が向いていた入陽だったが、食事中に会話と通して、彼らの纏う空気が、何処か錆びついている印象を持った。



 大人びている、とはちょっと違う。どちらかと言えば、子どもという機能が上手く動いていないような、そんな感じ。

 無自覚な無垢を持っていない。無垢を自覚していて、そこに含まれる加虐、残虐に色を塗っている。



 周囲なんて省みず、時間なんて考えず。自由に、自在に。ワガママが可愛くて、恥知らずが勇敢でクソ生意気。

 そんな風に、ただ飛び出した弾丸のように、一点を突き進むのとは違う。


 弾道は、撃った当人から見たらただの点でしかない。けれど二人の場合は、それを横から覗いて、直線を壁として見ている。

 時間と共に遠くなっていく背景より、伸びていく過程をもう一人の自分が見ている。



 なんといえば、いいのか。そう、なんというか。



 子どもでいることを、何処か放ってしまいたい。

 そんな汚れた自立を醸している。

 入陽は、繕と万にそんな印象を持った。




「そうだ、万。今日の課題全部出来てたから、入陽アイツの残りの肉全部食っていいぞ」



「……うーん、欲しいけど、いい。お姉さんのお肉取るのはかわいそうだから!」



「知らない内にいい子ちゃんに育ってんな、お前は」



「ホントだよ!! ホントいい子ちゃんだよ!! だから私の残りのお肉半分あげちゃう!」



「え、でも、おねえさんの分……」



「大丈夫! 実を言うと入陽さんはイヅモちゃんのご飯見ただけで、幸せ湧きすぎて八割お腹いっぱいになってるから! 割と気合で乗り切ってるところあるから、食べてもらった方が助かるんだ!」



「じゃあ食べる! ありがとうお姉さん! だいすき!」



(ふんぎゅうううおわわっわわわ//////////////////////)





 かわいい。圧倒的にかわいい。かわいいが圧倒的過ぎる。

 小さいイヅモちゃんがお肉もらって喜んでる。

 食べたい。食べたい。頭から丸呑みしたい……



(ダメよ一条入陽! 人を食べるのはまぁいいとしても、イヅモちゃんの弟さんを食べるなんて、そんな、罪なこと///////////////)



 肉の載った皿を渡しながら、入陽はにやけそうになる口角を力づくで抑え込む。イヅモちゃんと、中身イヅモちゃん(ハンサム)と、見た目イヅモちゃん(幼天使)とか。

 環境として最高過ぎる。ハーレム生活始まっちゃってる。これ以上の幸福は、地球が二角形にでもならない限り、やってこない。



 あー、多分いま、私の人生のピークなんだろうな……



 眼をハートにしながら、入陽は茶碗に残った米をかきこむ。

 眼福で満腹で至福。自分の好きな人と、好きな人と同じ血を持った人達に囲まれる。



 自分だけが部外者。その部外者が、誰かのコミュニティの中に混ざる。大好きと言われ、享受される。



 お友だちの家でご飯を食べる。それ以前に、誰かと食事を取ること自体、入陽にとっては初めてのことだった。家族とご飯を食べるなんて、したことなかった。



 母は神出鬼没で、何時何処にいるかなんて、ワタシが何処に何時いても分からない。



 そも、食事を取ること自体、滅多にない。いつもいつも。食べているのは、母と暮らしているはずの部屋に置いてある栄養食のクラッカーと、補給ドリンクだけ。



 暖かい食卓は、母から与えられた幾つかの本で、文字として知っていた。けれど、暖かいっていうのも、そういう形容詞としてしか、捉えていなかった。



 食事に温度はない。カロリーが熱量だから、それを表しているのかなと。何処も彼処も、変わった栄養価の表現をするなと、ずっと思ってた。



 でも、やっと今日、本に書いてあった世界が。その文字を書いていた人たちが、どんな世界を見ていたのかを知った。



 ワタシの世界は、ずっと白黒。今までも、そしてきっとこれからも。

 暖色なんて区別はない。涼やかなんて色はない。私の世界は常に、喪に伏している。



 今まで撃ち抜いてきた敵から溢れた血。

 イヅモちゃんに見せた私の血。

 生姜焼きの焼けた色も、付け合わせの野菜の色も。

 ワタシは知らなくて、知れない。

 ワタシにとって、血の赤はラベルでしかない。

 ただ人の身体から溢れた液体に、赤っていう単語をくっ付けただけ。

 他に同じ色のモノなんて分からない。

 どんな彩度かなんて言えない。




 でも、今日、色を知った。

 暖かいって言葉に色があるなら、ワタシはきっと、この光景のことを言う。




 もし私が、暖かいって言葉の定義を決められるなら。




 辞書に文字なんて書かない。

 イズモちゃんと、繕さんと、万さんが、一緒にご飯を食べている。

 課題の話をして。本の話をして、調味料を取ってもらって、自分の分のお肉を分ける。



 この光景を写真にしよう。辞書には、この写真さえあればいい。



 いいな、とっても、とっても羨ましい。

 イヅモちゃんは、ワタシにない物をいっぱい持っている。

 それこそ、憎くなるくらい。

 でも、だからワタシは惹かれたのだろう。

 ワタシに持っていない物を持っているから。

 ワタシに持っている世界を見せてくれるから。

 きっと、言えてないことは、いっぱいあるんだろうな。

 だけど、いまはそれでいい。

 愛情でお腹いっぱい。

 これ以上食べたら、吐き出しちゃう。

 でも愛情って食べたことないから

 また食べたくなっちゃうんだろうな。

 食べたらきっと、吐いてしまうだろうに。



 万が肉を平らげる姿を眺めながら、入陽は穏やかに頬を緩ます。



 あぁ、いまワタシ、すごく幸せだ。

 本当に、本当に、ワタシは。

 イヅモちゃんの全てが欲しくてたまらない。

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