2.8 思い違わぬ行き違い
ホテルのようなフローリングの敷かれた廊下を進み、一番奥の部屋の扉の前で立ち止まる。
フォルミーカ学堂の地下5階、6階。此処は学徒達の居住エリアとなっている。
「一条、私の左後ろのポケットに手ェつっこめ」
「イヅモちゃん急にどうしたの!? イヅモちゃんは自分のお尻をわざと触らせるような痴女じゃないよ!!! 解釈違いだよ!」
「何の解釈が違ってるか知らねェけど、そこに鍵が入ってんだから早く取れ。安心しろ。もし尻を触ったら、この場でお前のその使い道の無い
「チチって言わないで! おっきいの結構気にしてるんだから!! いやでも、罵倒されながイヅモちゃんに揉まれるなら……アリか?」
「いいから早くしろ。いまの左手じゃ取りにくいんだよ」
言われた通り、入陽はイヅモのポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。
扉を開け、イヅモに続いて中へ入ると、奥からドタドタと足音を鳴らして走ってきた怪獣の頭が、入陽の腹に飛び込んできた。
「おねえちゃんおかえりー!!」
「ぐブボぉぉぉ!! ごめんなさい……多分、お姉ちゃん違いをしてると、思います……ぐほぉ………」
膝から崩れ落ち、腹を抱えて痛みに悶える入陽。
敬語で話しかけてくる年上の女の人に、小さな怪獣は不思議そうに首を傾げた。
「おねえちゃん、この人だーれ?」
「今日からしばらく私たちのお手伝いしてくれる人。それより、
「……はい、ごめんなさい」
「素直でよろしい。けど
「はーい! お姉さん立ってー。お部屋行くよー!」
「ゔ、あ、はい……行きます、行くから、そんなに手を引っ張らないでくれると、助かります」
震える膝でよろよろと立ち上がりながら、入陽は
短い廊下の途中に、それぞれお風呂とトイレのステッカーの張られた扉が二つ。それらを通り越した廊下の奥で、光を漏らす扉の先へ。小さくて暖かい手が、入陽を招く。
扉の先には、二口のコンロが付いた台所。
その向かいには三人分の衣服の入っているだろうタンスと、辞書と同等に分厚い専門書が収められた本棚に埋まったリビングがあった。
「入陽ちゃん、ここって……」
「私の寮部屋だ。とりあえず、その辺で適当に座っててくれ。
「はーい、お姉さんここに座ってていーよ。はいこれ! 僕の一番のお気に入りのクッション!」
言われるがまま。入陽は渡された、可愛らしい猫の顔の描かれたクッションに腰を下ろし、衣服と本に囲まれながら、部屋の中を観察する。
いま腰を下ろしているここは圧迫感の強い空間だが、隣にある、ここと同程度の空間は綺麗に片付いており、背の低い丸テーブルには、三人分の座布団が並んでいた。
台所では、イヅモがエプロンを巻いて冷蔵庫の中を確認している。その隣では、
どれもこれもが、入陽にとっては初めての光景だった。
自分より弱い者と共生する空間。
かつて、母からは一度も与えられなかったもの。
「はい、おねーさんどーぞ」
「あ、はい、ありがとう、ございます……」
「いえいえ、そいちゃですが」
「そいちゃ? 大豆から出来たお茶、なんですか……か?」
入陽の質問に
(え……うそ、わたし、嫌われてる……!?)
確かに子どもに好かれるなんて経験一度もなかったけど、それは今まで小さい子と関わったことがないからであって、決して顔が怖いとか雰囲気が悪いとかそんなことはないと思うんだよ。きっとイヅモちゃんだって
『
って超絶カッコいいプロポーズしてくれてたもんだから決して近寄りがたいわけじゃ、待って逆かもしれない可愛すぎて逆に崇高すぎて触れてはならない的な何かをこの子の本能に与えてしまったのかもしれない。そしたらイヅモちゃんに嫌われちゃうかも知れないどうしよう生きていけない……!
「おねーさん、お茶飲まないのー?」
「あ、いえ、はい、いただきます……」
ダムのように脳内に流れる言葉たちを塞き止めて、目の前に出されたお茶を口に含む。
別に大豆の味は全然しない。ただの普通の緑茶の味がした。
「ねーねー、おねーさん何でさっきからけーごなの?」
「え、そんなつもりはないんですけど、なっちゃってます……か?」
「うん、今もなってるよー」
「ごめんなさい、イヤ、でしたか…?」
「ううん? でもけーごって大人の人に使うんでしょ? なのにこどものボクにそうしてるの変だなーっておもった!」
(ぐふぅ……!!)
おかしい、さっきから何かがおかしい。
なんでこの子の言葉は、こんなにも的確に私の心にダメージを与えてくるのか。たしかに私はなぜ、明らかに年下のこの子と敬語で話しているのか、自分でも分からない。
どんな相手でも経緯を以て接することはいいことだと思う。それが年上だろうが年下だろうが。
だから、きゅるんきゅるんのまん丸お目目のこの子と敬語で接することに悪い事なんて一個もない。
でもなんか、小動物撫でるみたいにたっっかい声で『かわいいねぇぇ~!!』ってするのも違う気がするし、おままごとみたいな、目線を落とした関りは......それもこの子にはなんか違う気がする。
なんだ、何が私を敬語にさせるんだ……
自分の行動のワケに悩む入陽。その顔を眺めながら、万は静かに隣に座ったままコップを傾ける。
初対面同士の戦い。その様子はまだ恋を理解していない子どもの青春のようでもあり、彷徨う宇宙人と警戒心の無い子犬の戯れのようにも見られた。
助けを求めようと、入陽はキッチンにいるイヅモに視線を向ける。しかし忙しなく動いているイヅモは、そのサインに気付かない。
自分で
つっかえる度に、意識はさっきみたいな思考モードに切り替わって、現実からの逃走を謀ろうとする。
ダメダメダメと自らを諭し、現実に向かって思考をかき分けていると、奥の方から感じた気配に、脚を止める。
身体の頑丈さには自信があった。刃物で傷付いたことはないし、弾丸が半分以上お腹に入ったこともない。先っぽが入ったくらいでいつも止まってた。
それが、この子の頭突きは内臓まで届いた。
その時から敬語だった。
その瞬間から、この子には敬語を使わなければならないと、本能の何処かが反応したんだ。
それに、この子は、万さんは……おねえちゃんと言って出迎えた。つまり……!!
「
刹那、入陽の額がフローリングに激突した。あまりの衝撃音に、イヅモも料理の手を止め、放置していた二人の方を向く。
額を擦りつけ、両手をついて土下座する17歳女子と、それを、何事も起きていないかのように優雅にお茶を飲む9歳男児。
「
キッチンから、エプロン姿のイヅモが、引きつった顔で当然の疑問を投げかける。
「何もおしゃべりしてないよ? 急におねーさんがこうなった」
「そうなんです! そのお姉さんが私は欲しいんです!!」
しかし9歳動じません。
「おねーさん、自分のこと欲しいの?」
「違います! そのおねーさんではないお姉さんです!」
「その"意思"か"石"か、みたいな会話やめろ。頭バグる」
まな板を洗いながら、入陽は混ぜたら危険そうな二人を静止させる。
「でも、うちのお姉ちゃんは友達いないし、他の人のことすぐ要らないって言うよ? 僕たちのことも全然手伝ってくれないし、『自分でやれ!』って、いっつも言ってくる」
「分かります! でもそこが良いんです! その厳しさが良いんです! その孤高な一匹オオカミだからこそカッコいいし、そんな獣を唯一癒せるメスにワタシは成りたいんです!」
思いの丈を惜しげもなく吐きだして、入陽は万の両手を握り込む。
包み込むというより、丸め込む。あざといというより、仕留める殺気。
「ねぇ、おねーさん」
「はい! なんでしょうか万さん!」
「女の人が、あんまり自分のことを『メス』っているのはよくないと思うよ?」
9歳の男の子の何気ない一言に、入陽の頭と身体は陶器のように渇いて、膠着した。
「メスは間違った意味じゃないけど、品の無い使い方だって、お姉ちゃんも言ってた」
ピキッ…と、ヒビが入った音が、何処からか聞こえてきた気がした。
疑いなんてどこにも孕んでいないキラキラの相貌に、浄化されていく灰の自分。
どこで失ったんだろうと、思い返される、この頃の穢れの無い言葉。
あぁ、穢れたって、こういう時に気付くんだな。
成長してしまったんだって、こういう風に知るんだな。
若い子って、それだけで眩しい。それだけで美しい。
どうか、このまま大きくなっておくれ。
こんなおねーさんになっては、いけないよ……
「お姉ちゃーん。おねーさん涙流して倒れちゃったー」
「そのままほっときな。しばらくしたら起き上がるはずだから。隣から私の毛布もってきて、掛けといてあげて」
「はーい。持ってくる―!」
横たわる入陽の身体を軽快に飛び越え、万は隣の部屋へと消えていく。イヅモは念のためを思い、火を消し、眼を閉じて聴覚を集中させる。
穏やかな呼吸が、一定の周期で聞こえてくる。倒れてはいるが死んではいない。ひび割れて掃除する手間が無くて良かった。あれは片してる間に粉が出てくるタイプだ。
「さて、あとは米が炊けるのを待つだけ……」
炊飯器のスイッチを押して、エプロンを畳み、束ねていた髪を解く。
「万、昨日の課題出して。米が炊ける前に確認するぞ」
「はーい! ふふーん、今回のはとっても自信あるよ!」
「ほー、ならお手並み拝見といかせてもらおうか。間違ってたら肉一枚没収な?」
「じゃあ、間違ってなかったらお肉一枚ちょーだい!」
「おーいいぞ。そこの
朗らかに笑う、パートナーの可愛らしい顔。
嫁立候補者は、その全て見逃した。
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