1.4 気持ち悪さでタレット
「うへへぇ~イヅモちゃんがワタシの手を握ってくれてるよぉ~うへへへへへへ……」
「気持ち悪い声出すんじゃねぇ。黙って大人しくしてろ」
口悪く宥めながら、イヅモは手早く止血処理を施すと、渇いた血を丁寧に拭き取る。小麦色の肌はぱっくりと裂けており、隙間から真っ赤な人体の中身が覗ける。
苦手な人にとっては卒倒ものだが、イヅモは至って平然と、傷の上に包帯を巻いていった。
「は~い……でもぉ、やっぱりにやけちゃうなぁ!」
変態のようなにやけ顔に、イヅモは溜息を零しながらも、心象の背景に生温い恐怖を覚える。
つい先刻。こいつは何の躊躇いもなく自分の手首を切り、滴る音が聞こえるほどの血を流したばかり。
常人なら確実にトラウマになるレベル。精神の壊しても可笑しくない。
そも、既に精神が乱れているから自傷したとも考えられる。それほどの傷だった。それほどの傷つけ方だった。
しかし仮にそうだとするなら、入陽の自傷には大きな違和感がある。
通常、自傷行為というのは衝動的なものだ。
例えるなら、一寸先の闇を目前に、落ちまいと耐えている最中、いきなり何者かに突き落とされるようなイメージ。それくらい、自傷というのは突発的で衝動的な行為であって、当人にもコントロールが効かない。
それと比べると、入陽の自傷には、そのような衝動性が感じられなかった。イヅモに質問をしたり、手首を切りつつ血を集めるため、マグカップを割る選択肢を取るなど、十全に思考を回した上での能動的な自傷だったと言える。
思考の段階を挟む自傷の例がないわけではない。しかしどう考えても、入陽のは感情から乖離しすぎている。より正確に言うなら、感情を満たすための行動としては、余りに理性的だった。
目的の為なら手段を選ばない。目的を達成できるなら、自分自身への残虐な行為さえ許容できる狂ったメンタル。
そして何より恐ろしいのは、二面性とも言える、両極端さ。
包帯を巻くために手を握られている。たったそれだけで顔が溶けるように綻び、瞳を輝かせて爪を舐めようとする。自分の本能に従順になれる。
ショックで自失しても可笑しくない、劇薬を浴びたかような出来事が、入陽の中では、たった数分の内に、遠い過去の出来事として処理を終えてしまう。
まるで、感情と理性を別々にカートリッジに保存しているかのよう。
そう思ってしまうほど、入陽の行動は、理性と感情が繋がっていない。その癖に、感情の解決案に理屈を介入させられる。
利点は大きいだろう。特に業務の時は、慈悲を糞以下に扱わねばいけないシーンが多々ある。そういった場面で意図的に切り替えができれば、それこそ生存率の上昇に繋がる。
(けど、これだけ二面性が離れてるとなると……)
背景だったはずの恐怖の、呼吸が聞こえてくる。
イヅモの脳裏を駆け抜けた最悪のシナリオ。それはいつか確実に起こるであろうリアル。
そして実際にそれが起きた時には、きっと今の想像など遥かに凌駕した凄惨になる。
私は、これからそんな危険を孕んだやつとパートナーになる。
この命に執着は無いが、死ねない理由がある限りは死なないし、死ぬつもりもないけれど。
私は、あとどのくらい、死から見逃してもらえるだろうか。
「それにしてもイヅモちゃん、爪がとっても綺麗ね! ねぇねぇどんなお手入れしてるの? あ、あとよかったらちょっと舐めてもいい?」
「いいわけあるかっ! 右手空いてんだから、そっちの指でもしゃぶってろ!」
「え!? イヅモちゃんの右手しゃぶっていいの!?」
「誰がんなこといったよ! 自分の右手しゃぶれって言ってんだよ!」
「だから合ってるじゃん! その"自分"は一人称代名詞の"自分"でしょ? も~イヅモちゃんたら、照れ屋さんなんだからぁ~!」
「ちげェよ! 二人称代名詞の"自分"だわ! しかもいま包帯巻いてんのは見たらわかんだろ! 私は両手とも空いてねぇんだよ!」
「そうだよねぇ。イヅモちゃんが両手でワタシの手握ってるんだもんねぇ。うふふへふふふへ……幸せー!!」
天井を見上げ、幸せを表現する入陽。鬱陶しさに苛立ったイヅモは包帯を巻き終えると、その上から軽く傷口を叩いた。
突然の痛みに驚いた入陽は、達磨のように身体を転げ回って悶絶する。しばらく声も出せずのたうち回ると、最後は慣性を制御出来ずバランスを崩して、あえなくソファから転げ落ちた。
「痛いよイヅモちゃん! ワタシこれでも年頃のレディなんだよ?! もっと優しくて丁重にお姫様みたいに扱ってよ! 愛の言葉百万個を耳元で囁きながら言いながら労わってよ!」
傷を庇いながら半泣きでそう訴える入陽を、イヅモは蟻を眺めるかのような無慈悲な眼で見下ろす。
「奇遇だな。私も一端のレディなんだ。おら丁寧に敬えよ。天上天下唯我独尊しろよ。感謝の心をもって焼きそばパン買って来いよ」
「そんな長ラン・スケバンの不良はもういないよ! 現代に恐竜が現れたぐらいのオーパーツ的衝撃を受けてるよ! ジュラシックパークだよ!」
「…なんだその子ども向け博物館みてぇなやつ。始祖鳥のモニュメントでも置いてあんのか?」
「違うよ! いや作品の内容的には違くもないけど! 映画でそういうのがあるんだよ!」
人差し指を立て、入陽は興奮気味に映画の概要を説明するが、話せば話すほど、イヅモの首は傾いていった。
「結構有名なはずなんだけどなぁ…。もしかして、イヅモちゃんて外見に比べて中身すっごい老けてるタイプ?」
「素直に殺されたいって言えたら許してやる」
「それって死んで償え的な意味にならない!?」
「凄いですね一条さん。ボケだけでなくツッコミも出来るのですか」
いきなり聞こえた男の声に、入陽は肩を大きく跳ねさせ、甲高い叫声を上げる。足音はおろか、気配さえも気取らせることなく現れた加々宮は、まるで初めからそこにいたかのような素振りで、ソファでタブレットに触っていた。
「か、加々宮先生! いつの間に現れたんですか!
「はははっ。九重さんから、常々影が薄いとは言われてきましたが、人間じゃないと言われたのは初めてですね」
入陽の不躾な質問に、加々宮は楽しそうに笑って答える。目尻が下がっていないから、中身は何か別のこと考えているのは分かったが、イヅモは敢えてそこに触れず、黙って加々宮の向かいに腰を下ろした。
「では、無事二人の顔合わせも済んだという事で」
ここまでの流れを無事の二文字でまとめるには無理があるだろ。奥歯まで出かけた本音を、イヅモは前舌を離れるギリギリ引き戻して噛み潰す。口の中に、名称し難い苦い味が広がった。
「早速ですが業務指示です。十中八九戦闘が絡みますので、武器の用意は十全に」
「んなのいつものことでしょう。で、詳細は?」
ぶっきらぼうに言葉を返すイヅモ。その隣に座った入陽は、髪をいじったり両膝を擦り合わせたりと、何やら落ち着かない様子だった。
気持ちは分からなくもない。編入したその日に業務に出るなど、同じ状況だったら、自分も同じように緊張すると思う。
ただ、あれだけとち狂ったことをする奴が、一体何を恐れているかは不思議だった。
「目標は敵の殲滅または捕縛。捕縛の方の重要度はさして高くないので、殲滅を優先して行動してください」
「なら少しは楽ですね。タスクが少なくてやりやすい」
「また、この業務は敵の殲滅が出来次第終了になりますが、敵の数と来るタイミングが読み切れない為、お二人以外のペアも何組か導入して交代制で行います」
「あの、ひとついいですか?」
入陽は控えめに手を挙げ、加々宮に問う。
「えぇ、何か分からないところでもありましたか?」
「その、殲滅が完了したっていうのは、どうやって判断するんですか?」
言われてみればそうだ。殲滅といっても相手の母数が分からないのであれば、いつになったら完了になるかが分からない。百人を相手したとて、それが母数の半分なのか十分の一なのかで、体力の分配もストレスの量も違う。
それに今回のように、タイミングまでも判明していないとなると、前述の負担もより質量を増して襲ってくる。その為の交代制なのだろうが、正直、母数くらいは知っておきたいところ。
そういうところには頭が回るんだなと素直に感心しつつ、イヅモは加々宮の方を見遣る。
「そこはご心配なく。今回の業務で重要なのはこちらではないので」
「それってつまり……?」
なるほど、合点がいった。それなら母数が分からないことも頷ける。
「殲滅するのはこっち側ってことか」
「さすが九重さん。頭がキレますね。そういうことです」
「え……つまりどういうことなのイヅモちゃん?」
「バナナの皮は踏んでも大して滑らねぇってことだよ」
「違うよね!? それは絶対違うよね!? さすがにはぐらかされてるって分かるよ! するんだったらハグにしてよ!」
隣で子犬のように吼える入陽に頭痛の気配を感じたイヅモは、素早くソファの端に移動して耳を塞ぐ。
もう十分学んだ。ここでハグについて何か言いようものなら、コイツはまたあーだのこーだど理解不能の論理を展開してくる。なら最初から触れずに、勝手に泳がしとくのが一番いい。
無視することに慣れておいてよかった。でなければ、またあの眩暈に襲われるところだった。
一方、話の流れに付いていけず、さらに運命の人にも冷たい態度取られた入陽は、ショックを堪えるように息を飲みこむと、イヅモの腕を肩たたきのように連打して不満を訴える。
「もう! せっかくパートナーになったのに! 教えてくれたっていいじゃん!」
大声で不満を吐露するが、手の甲に浮き出るほど強く塞がれた耳には一抹も届かない。連打を速くするも、イヅモの左半身が細かく振動するだけで、何の反応も返ってこなかった。
「ほら! 加々宮先生もなんとか言ってくださいよ」
入陽はニコニコ笑って見ているだけで何も言わない加々宮を指差し、そこからイヅモに向けて空中に線を引く。
「そうですね。夫婦漫才見ているみたいで楽しいです」
「そ、そんな夫婦だなんて……籍も入れてないのに、まだ早いですよ~えへへぇ」
夫婦という言葉の響きにすっかり気分を良くした入陽は即座に連打を止め、顔を真っ赤にして両頬を抑える。その急激な態度の変容に、イヅモは尋常じゃない嫌な気配を感じた。
「加々宮さん。今ぜってぇ余計なこと言いましたよね?」
耳から手を離し、イヅモは低い声で加々宮に詰問する。
「いいえ、そんなことありませんよ。素直な気持ちを言っただけですので」
なんとも穏やかで誠実な物言いに、イヅモは目の前にいる人物が、感情と表情を一致させない人物であることを思い出す。
色々思うことはあるが、言ったところで如何にもならない。観念したイヅモは、目を逸らす為の視線のやり場に、いつのまに置いてけぼりにしていた、業務の話を連れ戻した。
「それで、業務はいつからですか?」
「今夜からです。夜通しの作業になるので、明日の講座については、僕のほうから特休申請を上げておきます」
「りょーーかいです。まぁ、何事もないことを願っておきます」
「えぇ、それでいいと思います。業務開始時刻は三時間後になりますので、時間までに上で待機しておいてください」
「はい、それじゃあ寮に戻って準備を……今なんて言いました?」
「業務開始時刻は三時間後と」
「違う、その後です」
「上に待機と言いました」
「……ウエ?」
「上、です」
加々宮が深く頷いたのを見るや否や、イヅモの顔が急激に青ざめていく。
イヅモは女であるが、女の勘と呼ばれる概念を信じたことがない。
本人の性格上、根拠のない曖昧なものを信じないという点もあるが、一番の理由は自分がそれを使えた試しがないことにある。
だが、嫌な予感だけは当たると思ってる。なぜなら、これまで感じてきた嫌な予感が外れたことが一度もないから。
「その、上っていうのはまさか──」
「聖エラルメリア学院です」
「……クソがッ!!」
この任務に自分を割り当てた、顔も名前を分からない誰かに殺意が湧く。これまも上で業務を行ったことは何度かあったが、その度にこのやり場のない怒りを、必死の思いで押し殺して、歯を喰いしばって従事してきた。
新体制で頭のてっぺんから足の先までストレスで満ちてるこんな時に、どうして一番嫌いな仕事を割り振られるのか。しかも、よりにもよって……。
(守る方の業務がくるんだよ!)
「ねぇイヅモちゃん! 結婚式場は何処が良い?」
「お前の腹ん中!」
怒り心頭。能天気な入陽に死球の返事を投げつけ、イヅモは席を離れる。手を振って見送る加々宮には目もくれず、ずかずかと水槽を抜けると、乱暴に扉を開け放ち、足音大きく階段を上がっていった。
取り残された入陽は、先ほどよりさらに顔を真っ赤に色付かせており、蕩け顔の目をハートにしながら、恥ずかしそうに口元を隠して、小さく呟いた。
「ふ、二人の子どもが欲しいだなんて……そんなに、早すぎるよぉ、もう//////」
興奮して敏感になった鼻腔に、包帯越しの血の匂いが香ってくる。
二人の初任務まで、残り三時間。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます