2.6 血流は馬鹿を運ぶか

 繋がったまま転がった首は、人と見るには渇いていて、物体と見るには生々しかった。



 出血の続く腕を抑えながら、イヅモはその場を離れ、入り口近くの壁にもたれかかる。



 頭蓋を囲うように汗が吹き出し、密室であるはずの空間に、僅かな風の流れを感じる。



 腹と胸に服が張り付き、バルーンパンツの内側に蒸気が溜まる。収まらない心拍。早く止血しなければと分かっているのに、皮膚に溜まる生温い水っぽさが気持ち悪くて、喉の奥には、冷感ジェルを飲み込んだみたいな、気色悪い冷たさがへばりつく。



 こんな場面、今まで何回も壊し抜けてきた。そのはずなのに、どうしてこうも動けない。

 身体の底から、エネルギーが消え去ったかのよう。まつ毛に溜まった重たい汗を振るう気力も湧かない。




 うぜぇ、うるせぇ。




 霧散して纏まらない思考の中、そんな言葉ばかりが浮かんでは、途方もない遠くの方へ、意識が離れていく。

 こんなことになるなら、めんどくせぇって言って断ればよかった。




 だせぇな、クソが……




「らしくないね、出雲ちゃん。いつも通り、悪態つきながら合理的に動いてみてよ」



 何処からか取り出したタオルで出雲の顔を拭いながら、ただ単調に、静かに整った顔をした入陽が、憂いた声でそう言う。



「…てめぇにゃ言われたかねーよ。謝りながら首折って、イヅモ他人の顔拭いて。そんな丁寧なタマじゃねぇだろ、お前は」



 今しがた自殺を止められたかのような、気怠そうな声で、イヅモは問い返す。ほんの少し口角を上げた入陽だったが、瞳からは、生気のようなものが消えていた。



「大事な人が傷ついたら、丁寧にも冷静にもなるよ。ワタシは、出雲ちゃんには死んで欲しくないから」



 我が子を慰める母親を思わせる言葉遣いに、出雲の両目が無意識に見開かれる。



 それは恨みを思い出したからではない。

 雨の中、私達を置いて行ったあの女とは違う。



 一条入陽という女の子が纏う、桜色の母性を見たから。




「そんなの、親も言ったことねぇよ」


「私もだよ。『いつ死んでも大丈夫なようにはなってる」ってしか、言われたことない」


「それは、お前の親が、『自分が死んでも』って意味じゃねぇのか」



 汗を拭いたタオルをそのまま、出雲の二の腕を縛り付け、手慣れた様子で止血を進める入陽。いつになく鋭い目つきで集中しているようだったが、その脚は微かに震えていた。



「私のお母さんに限って、そんなことは嘘でも言わない。あの人にとって、私は唯一でもなければ無二でもない」



 フォルミーカっていう名の知れた製品には

 ちゃんと補修品が用意されている

 母の仕事に、子の自分も誇りを持っている

 けれど、愛されていない実感が、心の隙間に影を差し込む。

 娘が死んだところで、代わりは腐るほどいる。

 死んだところで、世界の構造は何一つとして変わらない。

 死んでから、初めて愛したあの人に、愛されるわけでもない。

 一条入陽が殺されても、大魔女は正常に戻らない。

 あの人は、何も愛していない

 ただ淡々と物事をだけ。

 その眼で、その経験で

 必要な時に必要な感情とよく似た何かを繕うだけ。

 それは決して、善い繋がりになることがないことなど知らない

 あの人は色の見えない私以上に、糸の彩が見えていない。




「そういうのは、出雲ちゃんの方がよっぽどよく分かってるでしょ?」



 イヅモを見上げながら、入陽は柔らかく、常識を問い直すように問いかける。



 下手に賢いせいで、先が見えてしまった。だから、甘えるよりも先に妥協が身についた。期待しないことを、嫉妬より先に覚えた。



 あの人はかけ離れすぎている。

 同じ言語で会話しているのに。



 あの人は遠くまで見過ぎている。

 まるで私の身体が透けているみたいに。



 あの人は枯れている。

 ただ死を待つだけの

 緑なんて身に付けたことのない

 滑らかな木肌の樹木のように。



 入陽の声には、そんな諦めが混じっていた。



 それは、自分の母が自分の描いた母の像には決してならないこと。

 自分が、母親の望む子の像を体現できないこと。

 そして、パートナーであるイヅモにも、理解できないだろうということ。



 母親の役にいくら叫んでも変化はなかった。そして自身に与えられた役を、自分イリヒは全うすることが出来なかった。



 だから今はもう舞台を下りて、ただ達観しているだけ。



 現実として受け入れる代わりに、当事者に、主観にならなくていい位置から観察する。それでも尚、未練がましく役を捨てられないから、舞台袖で立ち止まって、外に出られない。



 今も、死んでも、望まれないのに。何者かの型に、思考と身体を無理矢理ねじ込み続けている自分がいる。

 もしくは時間が経てば。万物が変化していく中で、何れあの人の娘を担えるようになるかも知れない。



 不可能を自覚していながら、それでも目を向けられなくて。

 影さえ伸びない可能性に、入陽は飲み込まれようとして、苦渋にその身を浸らせて、潜っている。




 哀れだとは、思わなかった。




 入陽の言うとおり、イヅモも望まれた子どもではなかったし、母親も望んだ親ではなかった。だから捨てられた。

 そして、フォルミーカ廃品回収業者に拾われてから。血縁ある娘だろうと、殺しが出来ようと。ただの女1人の代えくらい、幾らでもいると学んだ。



 イヅモ入陽コイツの境遇は似ている。




 けれど──




「知るわけねぇだろ、他人の気持ちなんざ」



 そう投げやりに言い放って、イヅモは血の跳ねた天井を仰ぐ。



「私は共感がクソほどできねぇ。同じ名前の感情してても、その色は人によって全部違うと思ってるからだ」



 血が止まったことを確認し、傷口を抑えていた手を放す。汗で薄まった血は揮発性がよく、歯痒くなる鉄の香りが、ゆっくりと鼻先に上ってきた。



「赤色で怒ってる奴もいれば、青色の怒る奴もいる。ただの主観の話でしかねぇけど、感情なんざ千差万別すぎて、いちいち考えてらんねぇよ」



 イヅモは床を軽く叩いて、隣に来て座るよう伝える。促されるがまま、入陽はイヅモの隣に腰を下ろした。

 汗が大体渇くくらいの沈黙のあと。入陽はいつものように、馬鹿らしく笑った。



「ごめんね! こんな時に変なこと話しちゃって。 ささ! 早く医局に行って傷の手当してもらお! ついでにワタシも頭のCT撮ってもらおうかな~、なんて……」


「今の話を聞いて、お前のイメージがだいぶ変わった」



 入陽は笑顔を崩さなかった、けれど、横からイヅモを覗く瞳にあったのは、純粋な不安だった。



「大魔女の娘様はどんだけ狂ったやつかと思ってたけど」



 入陽は何も言わず、頷きもせず。ただ出雲の言葉に耳を傾ける。



「案外、年頃らしいことも言うんだな。そのせいで余計気味悪いけど」



 思いがけないセリフに、入陽は瞬きを繰り返す。

 生まれて初めての言葉。尻尾に非難が付いているのに、どうしてか、心はとても穏やかだった。



「自分の望みがちゃんと分かってて、それと同じくらい他人の望みを見えちまう。お互いがせめぎ合ってて、でも大人にならなきゃいけないって押し殺す」



 けれど、押し殺した愛への飢え。その蓋が外れた時、狂気を催す。

 イヅモに突っかかってくるのは、その狂気を受け止めてもらえると直感したから。



 私は、認識を改める必要がある。

 イヅモは、己の頭の中でこれまでの情報を反芻した。



 一条入陽には理性がある。頭もよく、客観性を持ち合わせているから、思考の幅も広い。そして、業務の時から感じていた通り。人間としての何かが欠けていた。



 けれど、それは倫理でも常識でもなく、正気でもない。



 ただ、愛されなかった。本能としての欲を、満たされてこなかった。




 欠けていたのは、愛されること。

 問題だったのは、それに理性で気付いてしまった上に、抑えつけてきたこと。



 入陽の求める愛の形は、『望まれること』



 それが、この世の人間全員の愛の形ではないのだと、教えてくれる人はいなかった。

 だからイヅモを望んだ。望まれていることを相手に伝うのが、愛情の証明だと思ったから。

 望まれることが嬉しかった。この眼のせいで、望まれなかった時は怖かった。



 ただ必死に、一条入陽を望んで欲しかった。



「お前は、色々拗らせてんな。生きるの下手くそすぎて笑えてくる」



 顔を伏せながらも、必死に口角を上げる入陽。他人にさほど興味のないイヅモであっても、それが遠慮であることは分かった。



「そう、だね。でも地下ここにいると結構楽だよ! 死ぬことがいっつも近くに在るからさ!」



 生まれて初めて、他人を不幸を、可哀そうだと思った。



「一条、此処には私のフォローに来てんだよな?」


「え? うん、そうだけど……」


「なら手伝え。まずはこの場を片付ける。誰でもいいから指導員を呼んで来い」


「う、うん、わかった! すぐにいっぱい呼んで来るね!」



 そういって駆けだそうとした入陽の肩を掴んで、動きを止める。無意識に傷のある方で止めてしまったせいで、肉がミチミチと裂け、広がって気がした。



「早めに戻って来いよ。他の奴らが目を覚まし始めたら、今のワタシ一人じゃ心細い。お前がいれば何とかなるから」



 きっと、アドレナリンが切れたのと、血が抜けすぎたせいで、頭が上手く回っていないのだろう。でなきゃこんな、お世辞みたいな戯言、口にすることはない。



 自らを鼻で笑ってあしらうイヅモ。その隣で、入陽はしばらくポカンとしていたが、徐々に瞳が煌めきだした。



「任せて! サンタさんより早く地球回れるくらいに行って戻ってくるから任せて!」



 風が切れる音と共に。イヅモの姿が消えると、背後から再びベコンッという音が聞こえた。



 汗が引いて熱が下がると、身体は少しずつ寒気を感じ始める。

 小さく肩を震わせながら、九重出雲はもう一つの役を演じる自分の姿を想像していた。

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