1.2 感覚と伴う

 フォルミーカ学堂の奇怪な点の一つに、食堂以外の全ての場所に時計が設置されていないことが挙げられる。


 廊下は当然、先ほどまで加々宮と顔を向かい合わせていた部屋にも、壁掛け・卓上含め、時計と呼ばれる代物は何処にも無い。


 厳密にはタブレットやPCなど、時間を表示できるガジェットは存在しているのだが、それらの使用、閲覧は学堂の指導員にのみ許されており、学徒については業務時を除き、原則認められていない。



 では、学徒達はどうやって講座の時間などを管理しているのか。その答えが、スピーカーから流れる動物の鳴き声である。



 講座の開始五分前に必ず鳴り、学徒はそれを目安に次の講座の教室へ移動する。


 音量がごく微小なのは常に感覚を鋭敏にさせる訓練を兼ねているためであり、動物の鳴き声を使うのは、閉鎖された地下空間に於いて、季節の感覚を失わせない意味合いがある。


 今はメジロのさえずりが流れているので、外が春だと分かる。

 もう少しすると、今度は蚊が耳元で飛んでいるようなモスキート音に変わって夏を知らせるようになる。



 このようにして、学徒達は少ない情報から時期や時間を推察しているのだが、注意すべきなのは、これらが全て学堂側から伝えられたということ。

 つまり、これらの情報は全て学徒間の会話や噂などから導き出された論拠のない結論であって、誰一人として答えを知っている人物はいないということだ。


 ちなみに、指導員にこれらのことについて聞いても、示し合わせたように曖昧な答えしか返ってこない。ひとつ例を挙げるなら、『その方が納豆が美味しく発酵するから』と答えた指導員の話が、最も有名なところだろう。

 初めてそれを聞いた時、イヅモは『腐ってんのはテメェの脳みそとチ〇コ規制音だろうが』と思い、時間が経った今も全く変わらない感想を抱いている。


 便宜上の地上階の扉を開け、閑散とした廊下を駆ける。他の学徒の姿はなく、急いでいるのはイヅモのみ。


 風を切る音が、耳を掠めては後方に消えていく。目一杯に歩幅を広げ、跳ねるように走る姿は、獲物を仕留めんとする獣によく似ており、極限まで消失した足音が、その野性味をさらに増長させる。


 数十分前に同級を躱した曲がり角。左の足首をぐにゃりと曲げ、右手の壁に衝突するようにコーナーに入ると、すかさず肩を入れるよう身体を回して態勢を変える。


 胴体を床と並行に整えると、直後、瞬きよりも短いいとま。壁に着けた右足がバネのように縮み、イヅモを身体をさらに加速させ、前へと押し飛ばした。



 残り1分を切った体内時計に背中を追われる。目的の教室は突き当りを曲がった先。



 勢いを殺さぬまま、今度は左足で弧を描くように方向転換すると、軸にした右足で再び強く踏み込む。

 駆け抜ける刹那。この空間に自分だけという認識が、イヅモの心に不満を沸き立たせた。


 俊敏かつ柔軟に動くこの肉体を便利だとは思うが、執着するほど大事ではない。無様に死なない為だけに身に付けた身体能力。もし仮に、これが無くても生きられたなら、自分はきっと身に付けずに一生を終えただろう。今だって、捨ててもいいなら一秒後にその辺に放り投げたっていいくらいだ。


 けど、それは死なない限り不可能であり、寧ろこれだけやっても、まだ足りないと怒る自分が心の中にいる。

 生存率を上げるためには、超人という枠さえ超えなければならない。地下の箱庭で生きる人々。その中でも、一際異端な事情を抱えるイヅモには、この肉体は足りないものばかりの粗悪品。


 使う度に不足が積み上がり、寝ても覚めても足りない自分に苛まれる。

 自分は、誰よりも完璧に近い人物でなければいけない。そう拘らなければ生きられない世界に、九重出雲ココノエイヅモは染まりきっている。



 自意識が、より心象の焦りを助長する。


 今日が昨日より不足してはならない。明日が今日より不足してはいけない。



 だから講座に遅れるわけにはいかないし、そんな小さな理由で完璧から遠ざかりたくはない。どんな事柄も独力だけで握りつぶせるような、絶対の力が必要なのだから。



 振り切れない雑念と戦いながら、イヅモは歩を進める。体内時計が残り四十秒を切ったところで、目標の教室に到達した。

 なんとか間に合ったと安堵し、僅かに早まった心臓を軽くなだめる。

 体内時計で残り三十秒。鼓動が平常に戻ったのを確認し、覗き窓のない引き戸に手を掛けた。



 扇状に広がる小ホールほどの空間には、十数名の学徒が拡散するように疎らに席についていた。

 何人かが扉の音に振り返るが、イヅモの姿を確認するや否や目を逸らす。


 過去の一件のせいで、九重出雲の顔と名前は、地下に住む全員が知ることとなった。それからというもの、これまで無関心だった学徒さえも、このような態度を取るようになり、気付けば周りから浮かされていた。



 まぁいつものことだと、イヅモは心の中で嘲笑し、不機嫌そうに溜息を吐いた女学徒の横を往々な振る舞いで通り過ぎる。その際に向けられた視線は明らかな嫌悪であったが、噛めば砕ける感情などは無視し、前後左右共に中央の席に腰を下ろした。



 巨大なモニターを二等分した時の丁度中央のライン。全体のバランスが一番よく見える席なのだが、イヅモが此処を選んだのには別の理由がある。


 学徒からも一番見やすいこの席は、同時に教壇の指導員の視覚にも一番入りやすい。そういった理由で、基本的には避けられやすいポジションだが、講座を最も効果的なものにするにはベストだとイヅモは考えている。



 最も視覚に入りやすいという事は、態度やリアクションを最も確認されやすいという事。逆の視点から言えば、いまイヅモの座る席が一番、指導員の視線を奪いやすい。



 指導員も人間である以上、学徒に平等に接するという認識はあれど、実際には、熱心に話を聞く学徒がいれば、知らず知らずに内に情熱や意思をそこに集中させてしまう。これだけ前後左右に散らばれば、尚のこと視線は簡単に奪える。



 大げさにリアクションを取り、アイコンタクトの回数を意図的に増やすことで、指導員は自分でも知らぬ間に、イヅモに語りかけるように授業を進めていくようなる。

 そうなれば、こちらの授業の理解度も増大する。限りある時間の中で、知識を余さず得るためには、こういったことにも頭を回さねばならない。



 まぁ、こんな風に頭を使い続けるようになったせで、もう何年も熟睡できていないが、生活を送る上で支障は無いし、代償だと言うなら安いものだ。


 呼吸が安静時と同等に戻り始めた頃、教壇の指導員はタブレットで時間を確認すると、授業の開始を告げた。



「では講座を始めます。今回は前回の講座の続きから。発汗などの生理的現象の意図的な操作についてを────」



「っっすっませぇぇぇぇぇんんん! おくれましたぁぁァあぁぁ!!」



 空気が振動するほどの勢いで開かれた引き戸。その後に続いて響いた謝罪の声は、文字通りの轟音であり、空間にいた全員の髪を吹き乱し、マシーンよりも細かく筋肉を振動させた。



「その上で厚かましいお願いだとは思いますが! 是非とも同級生の皆さんに自己紹介をさせてください! 今日よりして参りました! 一条入陽イチジョウイリヒと申します! なにとぞ、お見知りおきを!!」


 自身の名前を叫んだ編入生は、二つ折りの財布が如く腰を曲げ、膝と瞳を合わせるように頭を下げる。

 二発の轟音を受けたイヅモは、閃光に当てられたような頭痛に襲われていた。



 バチバチとはじけるような痛みが、鼓膜の奥で響く。ほんのりと眩暈もしてきた。


 それらを抑え込みように。そしてここからの更なる刺激から逃れるように、イヅモは小さい手を最大限まで広げ、耳を塞ぐ

 傾く視界に車酔いのような気持ち悪さを覚え、鼻の奥から湧き上がってくる吐き気を必死に堪える。



 遠い過去に一度、同じようなシチュエーションに居合わせたことを思い出す。その時も今と全く同じ症状に襲われた。

 恐らくは五年以上前の出来事だったはずだが、久しぶりに症状と再会したところで、懐かしむ感情なんてものは微塵も湧いてこない。



 あるのは色んな物が混ざり合って出来た純粋な気持ち悪さと、大声を出したに対する確かな怒り。


 誰からも返事がないことに気付いた編入生は、空気を確認するようにゆっくりと頭を上げる。目の前の教壇で放心状態になっている指導員に気付くと、教室全体を見渡し始めた。



 揺れる頭を支えながら、イヅモは憎しみの灯った眼でその姿を観察する。


 握りこぶし程度しかない小さな顔に、腰まで下ろした、癖のない真っすぐな黒髪。158センチのイヅモより背は高そうだが、脚と胴のバランスがある意味で整っているせいか、恐らく実際の身長よりも低く見えている。


 ただ周囲を見渡しているだけなのに、その立ち姿からは何処となく気品が溢れており、加々宮と話していた『上の間違いではないか』という疑いが、イヅモの中で一層濃くなっていった。



(ぜっっったいに、こんな奴と組みたくねぇ……!!!)



 未だチカチカする頭に、直視したくない現実が介入したせいで、眩暈が余計酷くなる。


 何が大魔女だ。これだから椅子に根っこ生やした奴らはイヤなんだ。アンタらは野良ネコを拾うだけ拾って隣近所に放り投げるしかやらねぇのか。アンタらにとったら大事なのかも知れないが、ここでそれをやって失われるのは、アンタらの信用じゃなくて、私らの命なんだ。



 悶々とした感情が、腹の中でみるみると膨らんでいく。

 生涯を通じて相容れない天敵に出会ったような気分だ。時計のないこの地下で言うのも変な話だが、理解をするのに時間をかけるだけ無駄な気しかしない。



「え~と~...お~い、誰か~、お返事をくれても~いいんですよ~?」

 主人の反応を伺う子犬のように、辺りをうろつき腕を振って同級の反応を求める入陽だが、他の学徒も指導官よろしく、突然の爆音に放心してしまっているため、求める物は返ってこない。



 ただ一人。遂に腹で溜めてた怒りを我慢しきれなくなった、イヅモを除いては。



「ッんテメぇ! 自分が遅刻しておいて、急にバカデカい声出してんじゃねぇ!」



 波止場で佇む船乗りのように。対抗組織との喧嘩に赴く不良のように。机に右足を叩きつけたイズモは、不安そうに狼狽える編入生の身体を貫くかのように鋭く指を差す。



頓智気とんちきも大概にしろ! その口二度と開かねぇようにするぞっ!!」



 大魔女が認めただが何だが知らないが、阿呆の気持ちを汲んで助けたやるほど私は優しくない。そして今お前がやった自己紹介は、ただの傍迷惑なクソガキと同レベルだ。


 胃がひっくり返りそうなストレスを、イヅモは指先の一点に込めた。自らを貶す怒号に、入陽は胸元で両手を絡ませて、祈るような仕草で動きを止める。



 イヅモを見上げる入陽の視線と、入陽を見下すイヅモの視線がぶつかる。

 時間にして約2秒ほどの沈黙。それを破ったのは、またも入陽の声だった。



「──見つけた……」


「あァ? なんか言ったか編入!」


「見つけたの! 私の運命の人!」


「…はぁ、テメェ何言ってん………」



 頭上にハテナを飛ばすイヅモを余所に、入陽は手前の机に脚をかけると、軽やかに飛び越えて、そのまま海豚のような身のこなしでイヅモに接近し、中指の立ったままの手を両手で握った。



「運命だよ! 運命の人だよ! 目が合っただけでこんなにドキドキしたの初めてだよ!」



 興奮気味に入陽に、イズモの頭上のハテナが怒筋に変化し、額に宿る。



「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇ! なにが運命だ胡散臭ェ!」


「臭くないよ! あなたも私もいい匂いだよ! この制服だって新品の柔軟剤で洗ったんだもん!」


 イズモの額にさらに怒筋が増え、血管の青筋が額に浮かぶ。


「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ! 言葉のニュアンスもわかんねぇのか!」

「ねぇそれより名前なんていうの!? 私は君とペアを組みたい! 君となら世界中のどこまでもいけそう! そうだ! 私運命の人とペアになりたかったの! それでね、運命の人とは最初にチューをしてみたかったの! ね! ペアになりましょ! 大丈夫私も初めてだから安心して! ほら力抜いて、ちゅーー……」



 イヅモの額の怒筋が三つに増え、同時に何かが切れる音がした。


 3というのは多くの場面で使われる便利な数字だ。


 最たるものが野球だろう。バッターは三球空振りするとアウトになる。同じようにアウトが三つ溜まると、攻守が変わる。


「テメェは、自己紹介に倫理観と常識が欠けてるを追加しろ!!」



 目を鋭く尖らせ、歯を喰いしばるイヅモ。得体の知れないラブコールから逃れるため仰け反った身体から繰り出される渾身の頭突きの鈍い音が、静かな教室に木霊した。


 隕石の激突に気を失った入陽は、グルグルと目を回す。呆けたように口を開けたまま、前のめりだった体が背後から引っ張られるように傾く。


 離れた手をイヅモが掴もうとする素振りは微塵もなく、スローモーションな時間の流れは、入陽が机に後頭部をぶつけることでようやく解除された。


「こちとら、パートナーを選ぶ権利すらねぇんだよ! 少しは気ィ遣ってモノを言え!」



 教壇で相変らず放心している指導官の口が、先ほどより広く開いたように見えた。

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