2.7 壊変という名の透過
「両腕共に軽い骨折。左腕に関しては3~4センチの深さの噛み傷が4か所。加えて細かい傷が全身にいーっぱい」
フォルミーカ学堂地下四階。ワンフロア全てを、治療とリハビリに特化させた、フォルミーカ唯一の治療場。通称『医局』
怪我人の呻き声が聞こえてくる一室で、硬いベッドから天井を眺めるイヅモに、レースのカーテンの向こうの女医は、気だるそうに状態を説明していた。
「それとなんか知らないけど脱水。ただの訓練で何したらこんなに体液出しきんのって感じだけど、どうせアンタは聞いても言わないでしょ?」
視界の端で動く影が零す愚痴を、イヅモは鼻で笑う。
「分かってんじゃん。なら聞かないでよ」
イヅモがぶっきらぼうに言うと、お返しと言わんばかりの大きな舌打ちに続いて、ベッドを仕切っていたレースのカーテンが、勢いよく開かれる。
仁王立ちする特異な風貌をした女医の顔は、まさに苦虫を嚙み潰したように、不機嫌極まりない顔だった。
「あのね、こんなアングラ勤めだけど、ウチも医者の端くれなの。患者の状態は出来るだけ多く知りたいのよ。治療に関わるから!」
「金髪ロングにガーターベルト履いて、上裸の上から白衣着てるオカマの変態のどこに医者要素あるんだよ。そもそも
「オカマじゃない! この格好は"生き様"って書いて"スタイル"なのよ! あと豪さんて呼ぶなっていつも言ってるでしょ!」
騒々しい抗議に、イヅモは「はいはい」と適当に返して、豪さんと呼ばれた女医に背中を向けた。
「もう! これだから反抗期の
これも、いつもの決まり文句。豪は持っていたバインダーに机の資料をまとめると、ヒールの踵をわざと大きく鳴らしながら、診察室を出て行った。
乱暴に扉が閉まる音を聞いてから、イヅモはレースのカーテンを閉め直して、瞼を閉じる。
視覚を断つと、それ以外の感覚がより鋭敏に働き始める。
汚れ一つない、淡い水色のベッドからほんの少しだけ、嗅ぎ覚えのある薬品に香りがした。
急に音の無くなった診察室は、いつも以上に無機質で、虚しい。
寂しさという冷たさではなく、何も無いという透明が、空気となって満ちているようだ。
(一条のやつ、余計な事言ってないといいけど)
あの後、一条の連れてきた指導員によって、遺体の回収と学徒の搬送が行われた。腕に穴の空いたイヅモもそれと共に医局へ向かい、十分ほど前に漸く処置を終え、今に至る。
まぁ、加減ミスったせいで腕を喰われかける羽目になった訳だけど。やっぱり、ああいうのは最後まで蹴り抜くのが一番大事なんだな。うん。
そんなことより、気になるのはアイツを殺した
講座中に学徒が腕を引き千切られそうになったのを、対象の首を折って殺すことで助けた。イヅモからすれば救助活動だが、一歩外から見れば、同胞殺しでもある、今回の件。
味方であるべき学徒間で殺しがあったとなれば、学堂も静観してはいられない。あの場に於ける緊急性を鑑みたら......と思うのだが、今回に至っては状況が悪い。
今回のケースの場合、関係者はイヅモ、一条。そして、イヅモの腕を引き千切ろうとした
被害を被った側のイヅモは、近い内に聴取を受けることになるだろうが、恐らくはそれだけで、特に罰を与えられることはないだろう。何せ、良心で代理を引き受けたのに、腕を噛まれた不幸な被害者が、今回のイヅモの立ち位置だ。
しかし、一条はそうもいかない。状況がどうであろうと、代理を請け負ったのはイヅモであって、一条ではない。
つまり、あの場に於いて一条は『勝手に参加していた部外者』という扱いになる。
急に来た部外者が学徒を殺した。しかもあの殺し方では、過失で殺してしまったとは、とてもじゃないが言えない。
最悪、そんな安易な言葉が頭の中心に居座って、何度も何度も響いてくる。
左腕には綺麗に包帯が巻かれていて、動かせるのは僅かな指の先端のみ。右腕には点滴の管が繋がっているから、もっと動かせない。
何もできない時間。急な戦闘で心身ともに体力を使って疲れているはずなのに、どうにも眼が冴えて眠れない。
壁に虫一匹でもいたら退屈凌ぎにもなったのだろうけれど、地下の何処よりも衛生面に気を遣っている場所には、ゴキブリは愚かハエ一匹現れない。
退屈だ。退屈だから、こんな余計な事ばかりを考えてしまう。
今は、見れない。これは、何かの呪いなのだろうか。
(コンコン)
女医が閉めて行った扉からノックの音が聞こえたが、イヅモは意図的に無視を決め込む。
声を出すのが億劫だったの、あの女医が戻って来たのだとするなら、無視してもまぁいいだろうと思った。
再びノックが鳴り、それもまた無視していると少し間が空けて、襖を開けるようにゆっくりと扉が開いた。そして、狭い隙間から聞き覚えのある声がした。
「しーーつれいしますー。九重さんのお見舞いに来たのですがー……どなたか、いらっしゃいませんかー………」
寝返って、入陽のシルエットを確認する。靡くレース越しに聞いているせいか、一条の声は不安を表すように揺れていた。
「よう」
小さくそう言って、イヅモは自身の存在を伝える。
それに気付いた入陽は奥からパイプ椅子を引っ張り出し、レースの向こう側で腰を下ろした。
「起きてたんだね、イヅモちゃん。どう? 傷口痛んだりしない?」
「穴はまだ塞がってねぇんだ。痛みは残ってる。処置がちゃんと終わってるから、メンタル的には楽になったけどな」
「そっか……心だけでも楽なら、よかったよ」
「それより、アイツはどうなった?」
レースの向こうで影だけの一条の顔は見えない。
けれど、表情が陰ったのは、なんとなくわかった。
『浮かない様子だな』
そう一言、労いじゃなくても。
労いじゃなくて言えなかったことに、気付いてしまう自分がいる。
今までにない感情。哀ではないけど、心の底に氷が張ったよう。
アァ、甘ったるい。甘ったるいのは嫌いだ。
大事なモノを忘れて、貪ってしまいそうになるから。
「あ、えーと、あの後すぐに加々宮さんも交えて説明を受けたよ。けど、なんというか……すごい簡単に言ってしまうなら、よく分からなかったっていうのが、本音かな……」
「なんだ? 現場検証した指導員の説明が下手だったのか?」
入陽は首を振って否定すると、胸を張って大きく息を吸い込み、吐き出す。空気を含まなくなった入陽の言葉は、その分、籠もる意味や想いで、その重量を増していった。
「イヅモちゃんを殺そうとしたあの子。あの子は、ここの学徒じゃなかった」
予想外の事実に、思わず起き上がりそうになったところを、点滴の針が針の痛みが止めた。
確かに、
しかし、そいつが学外の人間だというのは、俄かには信じにくい。
この世で最も外界からの侵入を拒むフォルミーカで。身内以外の何者の存在さえ許さず、その摘発に注力をつぎ込み続けているあの地下で、あれだけ殺意のある人間が、どうやって入り込んだというのか。
イヅモがその事実を何とか受け入れようと逡巡していう間、ひとり、唇を強く縛る入陽。時間が経つごとに、この場の空気が少しずつ薄くなっていく気がした。
「それに加えて、見た目以外の生体情報が、何一つ合わなかった。見た目も、調べてみたら、全身に切開と縫合の痕が数え切れないほど見つかった。内臓以外、骨を含めた全身に
恐るべき異常事態に、脳がフル稼働して情報を処理しようとする。しかしどれだけ考えても、理解の糸口さえ見つからない。
「名前、学年、登録番号に担当指導員。学堂に関わる情報は全部が一致してた。それなのに、あの子の肉体は、本来登録されている子のものではなかった」
「なら、すり替えられた側はどうなってる。同じ人間が二人いたら、さすがに管理側も気付くだろ」
「データを見る限りでは、生存状態だった。でもどの階のどの場所を探しても、本来いるべきその子の、影も形もなかったって……」
いるはずの本人がいなくて、いないはずの他人がそれに成り代わっている
何処から、何時から。考えても答えは出ない。
けど、これで全部つながった。
そして今日、リミッターの外れた、より強い相手とも戦えるかを試すために出てきた。
私が代理に選ばれたのは、恐らく偶然。本来の目的は、自壊タイプの奴らと命から削り合うこと。そして勝てるかどうかを試すこと。
これは、学徒ひとりで為せる事じゃない。指導員…だとするなら相当上の指導員。もしくはそれ以上の立場の人間が仕掛けたと考える方が道理だ。
その上で、倫理さえ煙より軽く払ってしまう性悪さを持ち、子どものように興味だけで動いても、それを可能にする力を持っている人物。
そんなのに思い当たるのは、知っている限り一人だけ。
「一条。お前、あの学徒に『お姉ちゃんなのに』って言ったよな?」
「……小さい声で言ってたと思ったんだけど、聞こえちゃってた?」
「一言一句な」
「そっか、何だか、恥ずかしいな」
頭を掻きながら、バツの悪そうな声で入陽は言う。
「私がお前だったら、真っ先に大魔女を殺す」
イヅモはカーテンを勢いよく開ける。パイプ椅子に座っていた入陽は、
しかし対照的に、口元は硬く結ばれ、自身でも答えに窮しているのは、傍から見ても明らかだった。
「上の子が一番大事にしなきゃいけないのは、自分でも親でもなく、下の子達だ」
真実も、事実も。実際はどうであったかなんて、関係ない。
嘘でも冗談でもない命の話をする時に、婉曲した言い方はしたくなかった。
真白のタイルが張られた天井。風も流れてこない小さな空間。レースのカーテンの仕切りはもういらない。
息を飲む声さえ、大きく聞こえた。
「別にお前が何優先しようが勝手だけど、今日は私に付いてもらう。ろくに左手動かせねぇからな」
「それは、構わないけど…何処に行く気なの?」
入陽の問にイヅモは特に何も返さず、右腕に刺さった点滴の針を口で引き抜くと、その腕で入陽の手を取った。
「一緒に来い」
乱雑にそう言い放って、診察室を出る。
廊下の奥の方では、豪と呼ばれていた女医が扉の音に気付き、こちらをじっと見ていた。
イヅモも同じように豪の存在に気付いたが、2,3秒目を合わせた後、イヅモは、そのまま入陽の手を引いて駆けだした。
「急げよ。こっから一番大事な仕事があんだ」
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