2.2 吸引力は変えられない
「へー、学堂ってそんな歴史があったんだ……」
体感時刻、午前10時42分。
指導員の説明に、入陽は素直に耳を傾けながら、ホワイトボードとノートに、交互に視線を移す。
一方、一席分の間を空けて隣に座るイヅモは、頬杖を突きながら、ただじっと静かに、黒板の板書の文字を見つめていた。
「イヅモちゃん、メモとか取らなくていいの? 見直しとかできなくなっちゃうよ?」
入陽は身体を伸ばし、息を吐くような薄い声でイヅモに問う。
「復習しなくて済むように集中して聞いてんだ。邪魔すんな」
イヅモのぶっきらぼうな返答に、入陽はせっかく心配してあげたのにと言わんばかりに頬を膨らまして、分かりやすく拗ねる。ふーんだ、という不満の声が聞こえてくるようだった。
殺伐なことがフォルミーカだが、それも毎日じゃない。業務のない日は、こうやって講座を不真面目に受けることができる。
殺伐の要素があるとするなら、この講座が終わったあと、前回の業務後から預けていた長刀を工房に引き取りに行くくらい。
それが終われば、今日はそのまま真っすぐ自室に戻る。
血生臭いことが日常の中にあることに間違いは無いが、決して平穏にアレルギーを持っているわけじゃない。
命を奪わなくて良いなら、
血も見なくていいなら見たくはない。汗と混ざった血を舐めずに床につけた日は、人並みに穏やかで平和な一日だったと思って瞼を閉じられる。
平和ならそれが一番だし、淡々と日々が過ぎ去るなら、それに越したことはない。
紛れもない本心だ。
なら、どうして地下に身を置くのか。どうして平穏が良いと言っておきながら、鮮血をシャワーのように浴びることを受け入れているのか。
一つは、もし仮に逃げ出せば、自分が命より大事にしているモノを奪われるから。
二つ目は、自分がもう、
植物は歩かない。種が落ち、根が張った地点から、能動的に動くことは出来ない。乾燥した灼熱の砂の上でも、身の凍る極寒の崖の先でも。生きていく為には、自分が環境に適応するほかに選択肢はない。
攻撃的でぶっきらぼうな口調をしていると、自分でも思う。
けれど別に、戦うことは好きじゃない。
性根から好戦的でないことは、自分がよく知ってる。
こんな性格になったのは、こうならなきゃいけなかったから。
命を残すためには、自らが周りの環境と共存できるようになるしかない。
でなければ萎びて、茶色く変色した花弁のように、一枚一枚、バラバラになって死んでいくだけ
地下で生きるイヅモも、それと同じ。
恨みもないのに手を汚さなければならないのは、まだ華としての役目があるから。
「……と、このような経緯で、学堂は今も非公認として立場で暗躍しています。では、ちょうど時間ですので、ここで講座を終えます。各自死ぬ前の復習をしておくように」
白髪交じりの頭を短く切り揃えた指導員が、無表情に、笑えない冗談混じりを言う。
大魔女に従う人間の性悪さの見える一幕だったが、慣れた学徒達は誰一人動揺せず、誰一人笑わず、次々に教室を後にする。
ただ一人。地下に来てまだ十数日の入陽だけが、指導員の言葉に目を剥いていた。
「イ、イヅモちゃん、いまのって……」
指を細かく震わせながら、入陽は空になった教卓を指差す。確かに、生き死にの話を、指導員が実際に口にすることは珍しい。
タブーになっているわけではないだろうが、それでも自重しているところだあるのだろう。
けどまぁ、あの大魔女の下で動こうってやつだ。あのくらい気が狂っていても何らおかしくない。学徒もそれを分かっているから、特別反応しなかっただけ。
もしくは誰も真面目に講座を聞いていなかったか。
「今のが、世に聞くオヤジギャクってやつだよね!!?」
あんな命脅して寒気させるオヤジギャクあってたまるか。
「じゃあな、私は先に帰る」
「そんな汚物を見るような眼をしないで! 私の自尊心欠けちゃうから!」
そう訴える入陽を、イヅモは視界の端にも入れず、丁寧にシカトして、幅広く薄っぺらい真四角の階段を上がり、後ろ側の出入り口に向かう。
教室を出て話し声のする廊下に出ようと、引き戸に手をかけた瞬間、異変に気付く。
何者かが、扉の向こうでこっちを向いて待っている。
開けようとした腕を緊急停止させ、透視のできない眼で扉の向こうの様子を伺う。
イヅモは決してエスパーではない。超能力者でもない。
瞬間移動はできないし、テレパシーも使えない。一応スプーンは曲げられるが、三回に二回は元に戻せなくなる。つまり折り壊す。
だから、向こう側にいるのが誰かまでは分からない。けど、確実に誰かいるのは分かる。
恐らく生まれ持っていた才であり、
この、よく聞こえすぎる耳のせいで、イヅモの世界はいつも音に溢れている。
聴きたくなくても、自分を罵り、怯える人の声が聞こえてくる。忘れたくても、初めて引き金を引いた時の音は、今でも鮮明に覚えている。
だから
雨は、一つ一つの小さな音が重なって、それ以外の音から耳を塞いでくれるから。
大声は、ボリュームのぶっ壊れたスピーカーで、頭を殴りつけられたみたいになるから。
(呼吸と、なにか、小さく叩いてるみたいな音......)
どちらも極微かな音。拡声器で拾えない小さな音でも、イヅモの耳はそれを繊細に掬い上げる。
扉の前で待ち伏せされることは今までなかったし、待ち伏せされる覚えもない。
そりゃあ、何処で恨み買ってるかなんてわからないし、知らぬ間に殺したいほど憎まれてても可笑しくないけど。
でもまぁ、多分大丈夫だろう。扉の向こうにいるのは十中八九、拭いたら飛んでく民間伝承だ。
扉を開けると、目の前には予想通り、触ったら折れそうなか細い四肢で、背中に猫を飼っている男が待っていた。
「珍しいですね。加々宮さんが
タブレットを触りながら、上から覆い被さるように影を落とす加々宮の脇をするりと抜けながら、イヅモは表情のない声でそう言う。
「そうでもないですよ。寧ろ、私としてはこっちに来ない日の方が珍しいくらいです」
「……その割には一回も見たことないんですけど」
「こう見えて恥ずかしがり屋なので」
不健康そうな顔に小さなピースを添えて、加々宮は穏やかに微笑む。片眼鏡の奥では、ハイライトの消えた瞳が、衝動を抑えるかのように細かく揺れていた。
その顔に、イヅモは今度こそきちんと、背筋に寒気を感じる。
まるで、サイズの合わない人間の皮を被って、人間のようにふるまう、人間擬きを見たような気分になった。
なるほど。伊達に妖怪扱いされてない訳だと、イヅモは心の中でつぶやいた。
……そう呼んでんの、私だけだろうけど。
「そんで、なんで待ち伏せしてたんですか? ストーカーならここで即消しますけど」
「九重さんが魅力的な女性であることは賛成ですが、生憎、そんな趣味も興味も暴力性を含んだ好意も私にはありません。ちゃんとした用事を持ってきていますよ」
加々宮はぶかぶかの白衣の袖をまさぐると、名刺ほどの、濃紺のラバーケースを取り出した。
イヅモは受け取って裏面を確認すると、中央に『B1第一室』と記してあった。
「本日の4マス目の講座の指導員が失踪しまして。現在、一部学徒に業務として行方を捜索してもらっているところです。緊急対応に付き補填が困難であるため、九重さんに指導代理をお願いします」
まぁ、そんなところだろうとは思った。
地上階から下。B1からB3の教室には全て鍵が掛かっており、このラバーケースはそれを解錠する電子キーである。
一般の学徒にとっては、指導官が持っているのを見るものであって、実際に手に取ることは滅多にない。
だからといって、手に取ったところで、特別優越感を感じる代物でもないが。
「あ゛ァ、久しぶりに来たなー、
「はい。私の力不足のせいで休みを奪ってしまい申し訳ございませが、協力いただければと思います」
加々宮は丸まった背筋を伸ばして、
「頭下げないでいいですよ。慣れてますし。指導代理は歩合もいいんで」
フォルミーカでは一部の生徒に限って、指導員の代理として講座の指導を任されることがある。
基本的には別の指導員が代理をすることになっているのだが、今日みたいな、稀に起こる失踪の際には指導員も駆り出されるため、学徒が代理に立てられる。
イヅモの学堂での成績は特別優秀なわけではないのだが、ここで最も評価されるのは
明日起きてみたら、昨日話したあの子は死んでいた。そんなのが日常のフォルミーカで、イヅモは業務をこなしながら生き残り続けた。
10歳の誕生日を迎える前に拾われてから、7年。
こなした業務。越えてきた死線。殺してきた命の数。
イヅモの生き続けた日数と、こなした業務の量。
なにより、逃げられる人間じゃないという立場が、代理を吸い込んでいる最大の要因である。今更、それについて文句をいう気もないが。
「ま、いつも通り文句言われない程度にやっておきますよ」
「えぇ、よろしくお願いします。それと、これは業務の扱いではないので、一条さんには話を通していません。一緒にということであれば、九重さんからお伝えください」
「天地がひっくり返ってもないです」
「せっかくですから、検討してください」
それでは、と軽く会釈をして、加々宮はその場を去って行った。
イヅモはケースを制服のポケットに収めると、先に用事を済ませようと思い、工房に向かって足早に歩きはじめる。
曲がり角に入ったところで、先ほどまでいた教室の引き戸の開く音が聞こえた。誰が出てくるのが誰かは、当然知っている。
絡まれたら面倒くさい。姿が見られないようにと祈りながら、イヅモはさらに歩く速度を上げた。
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