ヴィオラ≒マゼンタ

はねかわ

序章:命の終わり

 一年の中で、最も多く、空の色彩が偏る時期。

 その時期は決まって、二本しかない足が、靴下を四つ履く。放っておくと、冷たさが足元から這い上がってくるからだ。



 日本国、首都。中心街の、名の知れた大通りを行き交う人々。その顔は奇妙なことに全て異なる。

 反対に、彼らが頭上に構える傘にはさほどの差はなく、夜雨よさめに反射する電飾に当てられ歩く姿は、吐き気がするほどよく似ていた。


 誰もが肩を内に丸め、耳の穴を機械で塞ぎ、手元で光るデバイスに目を奪われ、景色に埋もれるかのように息を潜める。

 水に塗れた地面は白線の汚れを洗い流し、影その物になった人々を、ぼんやりと陽炎のように映していた。


 街を練り歩くのではなく、街に練られるように歩く。誰しも、この街では主役になれない。大きなこの街の存在そのものが主役であり、自分達はそこに群がる蠅である。


 自らを羽虫と同等に思うその人々は、今し方水溜まりに落ちたことにも気付かない。

 ただじっと、飲み込まれるように、呪いにかかったように。画面の向こうにある、嘘で出来た装飾に、自分の本音を重ね合わせていた。



 そんな大通りの人波を横目に、一人の少女が、身を縮めて肩を震わす。快晴が近づくころと言えど、半袖一枚で過ごせるほど、雨降り頻る夜は情熱的でない。


 カーキのくすんだ折り畳み傘を、落書きだらけモルタル塗りの壁に立てかけ、露を凌ぐ。



 烏のたむろする路地裏。冷たさが骨の髄まで侵蝕していく。


 隣に座る小さな弟は、少女の右肩に頭を預けて幸せそうに眠っている。太陽にように仄々としている寝顔が、荒んだ心を均してくれる。


 一方、腕に抱えたもう一人の小さな弟の寝顔は、天使のように美しく、キメの細かい肌は、食べてしまいたいくらい柔らかい。



 愛おしい弟達を眺め、起こさないようにと、こっそり頭を撫でる。形のない幸せが、腹の底から込み上げてくる。この気持ちだけで身体が火照ってしまいそうな幸福だったが、そこに、不意に不純が混ざる。



 この脳みそは、意地でもその顔を忘れようとしない。幸せに嫌な気持ちと怒りを紛れさせるのは、脳裏に浮かぶ、両親の顔。



 誰よりも愛おしく、何よりも大事な、可愛いこの弟達を捨てた、あのクソな大人のこと。


 小銭しか入っていない財布を放り投げ、私達を捨て置いたあの大人たちは、今頃どこで野垂れ死んでいるのだろうか。

 私達を見下ろしていた大人達は、どこの地獄で、地獄を見ているのだろうか。


 弟達の寝顔を見ていないと、そんな事ばかりを考えてしまう。やり場のない怒りが、身体中の血管を巡り続けている。



(これからは、私がこの子たちを守るしかない......)



 深く目を瞑り、拳を握る。私の役目は、弟達を守ること。それが、いま私が生きる理由。少女は心の中で決意を刻む。その時、隣で眠っていた弟の頭が、膝の上に落ちてきた。



 熟睡して落ちてきたのかと思ったが、様子がおかしい。先ほどより明らかに呼吸が荒く、耳まで真っ赤に染まっている。肌寒いはずのこの気温で、額には大量の汗が滲んでいた。



セン!? 繕!! しっかりして!」


 声をかけるが、弟は反応を示さない。素人から見ても、容態はどんどん悪化しくのが分かった。みるみるうちに体温は上昇していき、呼吸も荒くなっていく。


 本能的に熱を逃がそうとしているのか。ついには這うように傘を抜け出し、水溜まりに身体ごと入り始めた。



「繕、ダメ!! そんなことしたら余計に……!」



 水溜まりに寝転ぶ弟を引っ張り上げようと、少女は身を乗り出す。



「…ゔぃ、ぇ…ゔぃぃぃいええぁぁぁぁぁぁぁああ!!」



 すると今度は、大人しく腕に抱かれていたはずの弟が泣き始めた。姉の不安を感知したのか、小さな弟は、身体を必死に動かして泣き叫んで助けを求める。


「ごめんね、冷たかったね。ごめん、ほんのちょっとだけ、我慢してて......」



 眼いっぱい浮かべた涙を押し殺し、必死に泣きじゃくる弟をあやしながら、のたうつ弟の腕を引っ張る。



(どうしよう どうしよう どうしよう どうしよう……)



 こんなことなら、大人しく家に居ればよかった。例え両親アイツらが帰ってこなくても、雨を凌げる場所で待っていればよかった。



 ありもしない希望に縋ってしまった自分が疎ましい。

 この世で唯一の、自分より大切な弟達を守れない自分が憎い。

 真横には大通りがある。少し動けば大人はいっぱいいる。精一杯助けてと叫べば、あるいは......


(でも、大人は信頼できない。いつか面倒になって放り捨ててくる。私しかいないんだ。この子たちを守るのは私しかいない。大人なんかには頼ってられない。私が、私が……!)



「あら、随分と小さな傭兵さんね」



 拾ってきたゴミを啄んでいた烏が、一斉に羽を広げ、雨天の空に逃げていく。



 少女の目の前に現れたのは、化物のように大きく、シルクのような白い肌の上に、全身を覆い隠す真っ黒なローブを纏った、魔女のような女。



「それでいて弟クン達も一緒なのね。とすると、生き延びてたのは運かしら。」



 魔女は膝を曲げしゃがみこむと、繕の前髪をめくり、汗だくの額に触れる。全身を繭のように包むコートの裾が地面に触れる。揺れる波紋に映る乱れた輪郭に、少女は可憐な華を見た。



「しかも、随分と高熱ね。おまけに下の子は大ぐずり」


「そう、なん、です……」


「でも、悪いけどあなたでは無理ね。この子達を守るには弱すぎる」



 心を見透かしたように。大人は少女と目を合わせると、その奥を覗くように、いたずらに口角を上げ、低い声でそういった。

 現実を押し付けられた少女は、刹那の間に幾重もの虚に埋もれた。



 自分では守れない。

 その言葉が、跡形もなく壊れた覚悟を踏みにじる。

 絶望が、そこまでやってきた。

 絶望は、大口を開けると、少女を喰い殺さんと近づく。



 顔を伏せた少女。大人はその姿に立ち去ろうとしたとき、少女は、迫りくる絶望の牙を掴んだ。



「なら、あんたが守ってよ」



 湿ったコートの裾を引き、少女は大人を引き留める。突然の攻勢に面食らった大人は、返す言葉の浮かばぬまま、少女の瞳を見直した。



「あたしが守れるようになるまで、アンタがこの子達を守って」



 先ほどとは打って変わって、少女の瞳からはハイライトの消え、まるで死人の如く据わっている。



 面白い。魔女は嬉しそうに、少女に言葉を返す。



「悪いけど、私はこの世でいちばん慈善の二文字が似合わない人間なの。そして付け足すのであれば、道楽で人を助けられるほど暇でもないの」



 魔女は、ポケットから煙草を取り出すと、左手の指を鳴らして火をつける。雨の中、煙草は湿気ることなくよく燃え、夜雨の中に一つの赤を残した。



「なら、アタシがアンタの暇を作ってやる」


「は?」



 大人は低い声で聞きただす。



「いま暇じゃないなら、アンタの仕事でも何でも手伝ってやる。それで出来た暇でこの子達を助けて」


「ほぉう、チビ助が私と交渉しようっての。さっきまで涙目だったクセに、本性は随分図太いじゃない」


「うるさい! いいから黙って答えて! 守れるの! 守れないの!」



 少女の叫びに、大人は小さく笑って煙を吹かす。



「……私の仕事じゃあないが、私の組織になら入れてやる」



 雨音と、行き交う人の喧騒が、凪のように穏やかになって消える。



「……組織?」



 少女の疑問に、魔女は答える義理はないと言わんばかりに語を並べ続ける。



「あんたがどんな地獄にいたかは知らないが、少なくともそれより地獄だってことは言っといてあげる」



 少女は固唾を飲んだ。その上で、魔女をしたから睨み上げた。



「ただ、あなた次第では充足に生きてられる。無論保証は出来ないけれど、あなたが生きてる限りという条件付きなら、弟君達については保証してあげられる」



 さぁ如何する。そう問いかける代わりに、魔女は少女に手を伸ばす。

 少女はひとつ大きく息を吐くと、弟達の手を強く握った。そして熱に魘される弟を担ぎ上げると、泥に汚れた靴で魔女のブーツを踏みつけた。



「アタシは、弟達を守るためにアンタについてく。その為に生きてやる。その為だけに、アンタを使ってやる」


「いい度胸ね。気に入ったわ。面白そうだから、使われてあげる」



 魔女は胸ポケットから携帯を取り出すと、何処かへ電話をかける。二、三やりとりをしたのち電話を切ると、最後にもう一度、煙草の煙を吸いこんだ。


「すぐに迎えが来る。さ、立ちなさい。その風邪っ引きは私が連れてってあげる」


 そういうと魔女は、まるで子猫を運ぶかのように弟の首根っこを摘まみ上げると、宝を強奪する山賊のように、乱雑に肩に担いだ。



「ちょっと! もっと優しくして抱えて‼ その子はアタシの弟なの!」


「知ってるわよ。けど、これからは言葉だけでなく、力で他人を言い聞かせられるようになりなさい。それがあなたの仕事になるんだから。まぁ、今回は最初で最後の温情で、煙草は止めといてあげるわ」



 魔女は火がついたままの煙草を握り潰し、無造作に捨て落とす。

 皺のよった煙草は螺旋を描くように落下していく。そして、地面とぶつかる寸前。魔女は少女に踏まれたその足で、赤色の消えた煙草を踏みつけた。



「覚悟しておきなさいレディ。組織に入れば、私が守るのは弟君たちだけよ?」


「──アタシは、もうこの子達以外に誰も守る気ないから」



 路地の横に、車高の高い真っ黒のフルサイズバンが停車する。何名かの秘書らしき女性出てくると、一人はずぶ濡れの魔女の頭上に傘を差し、一人は扉を開け、一人は辺りを監視する。



「いい覚悟ね。さ、乗りなさい。世にも珍しい、地獄への直行便よ」



 魔女は新しい煙草を取り出すと、火をつけないまま少女の口に差し込んだ。少女は怒りを抑えるように、その細い煙草に歯形を押し付けた。

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