補填1* 足されることを拒む和
「初業務にしては、随分と派手にやったみたいね」
デスクを挟んで向かい合う娘に、母親は静かに語り掛ける。
「そうかな? けっこう抑えたつもりだったんだけど、派手だったかな?」
「あちこちに血が飛び散っていたせいで、珍しく隠滅班が小言を言って来たわ。言い分は分かるけど、あんまり貴方のことを悪く言うものだから、もう少しで
可愛らしい冗談に、娘は退け合う磁石のように顔を引きつらせ、青ざめる。
分かってはいたことだが、母にはどうにもジョークの才能というものが無いらしい。最も長く時共有したワタシでさえ、これほど恐れるくらいなのだから、部下の人達からしたら卒倒ものだろう。
仕事の立場上、助かっている部分も多いのだろうけれど、親としては見る限りは、如何なものかと悩む日も少なくない。
自分はもっと、この人から目を背けるべきではないかと。
「それは、悪いことしちゃったな……。ごめんなさい」
「いいのよ、初めてだったんだから。これから気を付けていきなさい」
娘は小さく頷くも、その淑やかで冷酷な眼に慄き、半歩
(けど、それをお母さんに言ったら、あんまり良い事とは、思ってなくれないだろうな……)
最近は、自分でも成長したと感じる機会が増えた。個人的には、結構嬉しいことなのだけれど、母はきっと、あまり丁寧に成長曲線をなぞられては困ると思っていることは、娘の自分にも分かった。
だってお母さんは、私を、常識と異ならせる為に育てたのだから。
しばらく重苦しい沈黙が続く。大窓から差し込む陽光が真っ白な背景となり、ただでさえ真っ黒な母の姿が、全身にかかる逆光の陰と同化する。
居心地の悪さに耐えられなくなった娘は、拮抗を割くように口を開いた。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「……どうして、ワタシをイヅモちゃんと組ませたの?」
母が長を務める機関で、初めて関わった母以外の女性。
自分と同じ性を持つ、初めて出会った同い年の女の子の匂い。
初めてこの眼で見た時から、離れたくないと思った。人工物ばかりの地下では分からなかった、心満たされる花の香りが、そう直感させた。
諸々の出来事はあったけど、業務も二人で無事に終えられたし、個人的には、相性は凄くいいと思ってる。生まれて初めて、抑えきれない感情に体が動いた。
それでもし、この組み合わせが母の指示だとしたら。
自分の娘と相性がいい子は誰かを、母が考えてくれた結果だったら。
ワタシは、これ以上なく幸せでいっぱいになって、凄く嬉しいって、素直に笑える。とても安易な感情で、子どもっぽいと思う。もう
知りたい気持ちは、抑えられなかった。
「特に深い意味は無いわ。あなたの力を高める可能性はあると思ってたけど、選んだ理由を強いて挙げるなら、都合が良かったからね」
「そう…そうだったんだね……」
ある意味期待通りの答え。今更になって、娘は自分のしたことを後悔する。
出さないようにしていたつもりだったが、知らぬ間にそうなっていたらしい。どこか煮え切らない表情を浮かべる娘に、母親は訝し気に顔を覗いた。
「なにか不満でもあったかしら?」
「ううん! そんなんじゃないよ! そんなんじゃ、ないん、だけど……」
詰問に怖気づいたか。娘は言葉を詰まらせる。
気を遣わせては悪い。裏切らなかった結果を追い出すように、一目惚れしたあの子の顔と声とを思い浮かべる。
すると娘は先ほどまでの表情は一変させ、得も言われぬ恍惚としたにやけ顔で、己の頬を赤らめ始めた。
「実はね……ワタシ、あの子に、イヅモちゃんに逢えて──」
──生まれて初めて、愛情を知った気がするの。
甘い声で、咲き誇る春を語る娘は、まるでラブロマンスの世界のキャラクターが、そのまま現実に現れたかのようだった。
毛先を指に絡ませ、腰を捻り、蕩ける嬌声が息を吐くたびに溢れてくる。今まで見たことのない娘の表情と仕草。砂糖の匂いが、何処からともなく香ってくる。
娘が魅せた未知の表情を見た母親は、勢いよく椅子から立ち上がると、何の躊躇いもなく、その顔を真正面から殴りつけた。
骨同士がぶつかる鈍い音が響く。次の瞬間には、娘は転がるように後方へ吹き飛ばされ、真新しい木壁に背中を打ち付けた。
状況を必死に理解しようと顔を上げると、そこには、ケダモノを
「ねぇ、入陽。貴方がいま感じているソレは、どんな色をしているの?」
滝のように流れ出る鼻血が、ぼたぼたと音をたててカーペットを汚す。
痛みに悶える娘に対し、母親は、不気味の谷を訪れたかのような、気持ちの悪いお手本通りの笑顔で、そう語り掛ける。
「味は? 見た目は? 栄養素は? 構成元素は? ねぇ入陽。他でもない私が、他でもないあなたに聞いているの」
赤らめた入陽の顔からは血の気が引き、すっかり恐怖と無理解に犯されている。
いま痛みに悶える私に、憂慮の欠片さえ与えないのは。
誰でもない。こんなワタシを育ててくれた、大好きな母親。
この世で一番、ワタシのことを知ってくれている、育ての親。
色の分からないワタシだけど、大好きな人の顔を見紛うほど盲目じゃない。
この人は、間違いなく私の母親。
涙を零すワタシの顎をサッカーボールみたいに蹴り上げて。仰向けになった私の上に跨るのは、何処かの知らない誰かじゃない。
その立派な両手でワタシの首を絞めているのは、変装した誰かじゃない。
いつも変わらないオーバーサイズのコートに、細い煙草を咥えた、大好きなお母さんだ。
「光届かぬ地下の暗闇に入る太陽。それがあなたに付けた名前の意味」
静かに、淡々と。まるで教えを説くかのように話す母親は、ゆっくりと両手に力を込める。
「そんなあなたを、私は愛情を受け取れるように育ててないの。なぜなら、あなたは
気道が狭まり、咳をするように呼吸をするが、苦しみは微塵も緩和しない。ほんの少し息を吐いただけで、水中に数十メートル沈んだみたいに苦しくなる。
「ご……ごめ…なさ、い…………」
「いいのよ入陽。謝らなくても」
傷付いた身体を慰めるような優しい声で。母は娘の首をさらに握る。
「いいのよ。あなたがあなたでいる限り、私はあなたの味方。あなたも、あなたの大事なモノも、ちゃんと守ってあげるから」
涙浮かぶ、入陽の瞳。そこに映る魔女の表情は、途方もないを体現したような、無色な色をしていた。
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