第10話 親子の会話

 ゆうちゃんを見送ったあと、守梨まもりは一目散に「テリア」に向かい、厨房で灯りを点け、フロアに向かう。


 両親は今もいてくれているだろうか。フロアに着いた守梨はぐるりと店内を見渡す。いるのかいないのか、そもそも幽霊が見えない守梨には分からない。だが、いてくれると信じて。


 守梨は厨房に近い席の椅子を引き、腰を下ろした。


「お父さん、お母さん、松村まつむらさんのお店に行って来たで。……ドミグラス、ビーフシチューにしてもろて、いただいて来たで。ちゃんとお父さんの味やった」


 思い出すと、また口の中にあの濃厚な味が蘇る。旨味とコクが豊かで、そして懐かしい。その暖かさは守梨を包み込んだ。


 守梨は言葉を切って、また店内に視線を巡らす。やはり両親の姿は見えないが、「マルチニール」に行く前に両親が立っていたと祐ちゃんが教えてくれたあたり、厨房とフロアを繋ぐドア付近に目線を向ける。


「松村さん、お父さんの味を守ってくれてはった。他のもんは松村さんの好みとかが反映されとったと思うんやけど、ドミグラスソースは同じやったよ」


 それは本当に心が震えるほどに喜ばしいことだった。松村さんが惚れ込んだお父さんのドミグラスソース。それを正確に引き継いでくれている。だからこそ守梨はまたあの味に出会うことができた。それでも。


「お父さん、お母さん、ドミグラスソースを駄目にしてしもて、ほんまにごめんな」


 そのことに対する自分への嫌悪感、罪悪感は、まだ守梨の中でくすぶっていた。「テリア」の、お父さんの宝物を、お父さん本人がいつくしみ育てたものを破棄せざるを得ない羽目にしてしまったことは、本当に悔やまれてならない。


 それでも松村さんに譲られたドミグラスソースにも、お父さんの料理人としての魂が込められている。そこに松村さんの魂が加わり、そして次には。


「祐ちゃんがな、お父さんのドミグラスソースを守ってくれるんやて。ほら、私、お父さんに全然似ぃひんで、お料理できひんやん? せやから私が引き継ぐんは難しいて思ってたんやけど、祐ちゃんが代わってくれるて言うてくれてん。祐ちゃん、お料理もできるんやて。せやからうちか祐ちゃんの家に、お父さんのドミグラスソースが戻って来るかも知れへんのよ」


 守梨は穏やかに微笑む。本当にそれが叶えば、なんて素晴らしいことだろう。まるで両親がよみがえって来る様な、そんな錯覚まで覚えてしまう。


「祐ちゃんに頼ることになってしまうんやけど、今度こそ守るから。せやからお父さん、お母さん、見守っとってな」


 返事は無い。守梨が口を閉じれば、この店内は静寂に包まれる。それでも守梨は両親の存在を信じる。祐ちゃんがいると言ったのだから。守梨がここにいるのだから。


 守梨はそっと立ち上がり、今できる精一杯の笑顔を浮かべる。まだ心の底からは笑えない。だが両親に少しでも安心して欲しくて。


「お父さん、お母さん、おやすみ」


 守梨は言うと、厨房で店内の明かりを落とし、2階に上がった。




 翌日は土曜日。会社は休みである。午前中、守梨は家事をすませ、その流れのまま「テリア」の掃除もする。厨房もフロアも、ダスターで綺麗に磨き上げた。休日の今日は床もいた。


「お父さん、お母さん、私な、まだここ手放すとか、そんな勇気が出えへんのよ。せやからもうちょっとここにおらしてな。その代わり、毎日綺麗にするから」


 これまでは黙って手だけを動かしていた。だが今、ここには両親がいる。きっといる。まだ心は癒えていないが、嬉しくて、守梨は両親に語りかける。


 霊に詳しくは無い。だが漠然と、幽霊は怖いものだと思っていた。幼いころには心霊番組を見て、恐ろしい思いをしたものだ。だからか、最近はそういう番組からも遠のいていた。


 だが両親の幽霊だと思ったら、怖さなんて微塵みじんも無い。むしろ、暖かな空気が「テリア」に流れている様な気すらする。


 守梨には感じることすらできないのだが、できればずっとこのままでいて欲しい、なんて思ってしまうのだ。

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