第5話 「マルチニール」へ

 ゆうちゃんが迎えに来てくれた時、守梨まもりはまだお店のお掃除の最中だった。


「ごめん、すぐに終わらすから」


 守梨が焦って言うと、祐ちゃんはいつもの様にお手伝いを申し出てくれた。今日は早く終わらせた方が良いので、ありがたく受け入れる。


「ありがとう、祐ちゃん」


「気にせんでええで」


 あとはフロアの椅子とテーブルの拭き掃除が残っていたので、祐ちゃんと手分けして拭き上げる。


「終わったら行こか」


「……うん」


 守梨は頷いた。少し緊張している。久しぶりにあの味に会える。そう思うと気分が高揚した。


「祐ちゃん、お父さんとお母さん、ここにおる?」


「おるで。今は奥の壁のあたりにいてはる」


「あのさ……、一緒には行かれへんのやろか」


「聞いてみるわ」


 祐ちゃんはフロアの奥、フロアと厨房を繋ぐ場所辺りに向かった。そこに両親がいるのだろう。やはり守梨には見えないので、切ない思いがつのる。


 「おやっさん、お袋さん、俺らこれから松村まつむらさんのお店に行くんやけど、一緒にどうですか?」


 ほんの少し間を開けて祐ちゃんは何度か頷き、守梨を振り向いて首を左右に振った。


「行かはれへんて」


「そうか……」


 少し残念な気がする。一緒に来てくれたら、両親も懐かしいのでは無いだろうかと思ったのだが。


 ああ、そう言えば地縛霊というものを聞いたことがある。確かある一定の場所から動くことができない幽霊のことだったと思う。


 両親がそうなのかは判らないのだが。自分たちの意思で来ない可能性だってあるのだし。


 守梨はそろりと足を動かし、祐ちゃんの横に立つ。目の前に両親がいることを信じて、口を開いた。


「お父さん、お母さん、あの味、食べて来るから。あの……」


 守梨は言い淀んでしまう。果たしてこの表現が合っているのかどうか分からないのだが。


「見守っててな」


 尻すぼみの様に呟く。一緒に行けないのに見守るも何も、と思うのだが、できれば側にいて欲しいと思ってしまうのだ。同席できなくても、幽霊ならどうにでもなるのでは。そんな不確定かつ希望的観測の様なものがあった。


「守梨、おやっさんとお袋さん、頷いてはるわ」


 守梨の思いが届いてくれたのか。守梨は少し安心することができた。


「ほなお父さんお母さん、行って来るな。祐ちゃん、行こ」


「おう。おやっさん、お袋さん、行って来ます」


 そして守梨はお店の灯りを落とした。




 本町ほんまちは大阪メトロの御堂筋みどうすじ線と四ツ橋よつばし線、中央ちゅうおう線に駅がある街である。ビジネス街のため多くのビルが立ち並ぶが、駅周辺には様々な飲食店もあった。


 界隈で有名なのはせんびると呼ばれる船場せんばセンタービルだろうか。いわゆる問屋街である。数棟に渡る広大なエリアに多くの店舗が軒を連ねる。衣類や雑貨、家具などまであらゆる品物が揃っている。人気の飲食店も入っている。


 四ツ橋筋にはうつぼ公園もあり、四季折々の花が心を和ませてくれる。


 松村さんのお店「マルチニール」があるのは、四ツ橋筋から1本東側の筋沿いである。なので最寄り駅は四ツ橋線の本町駅である。


 守梨と祐ちゃんは大阪メトロ御堂筋線であびこ駅から大国町だいこくちょう駅まで移動し、同じホーム、隣の路線を走る四ツ橋線に乗り換え、本町駅で降り立った。


 御堂筋線ならともかく、四ツ橋線はあまり利用する機会は無い。だから松村さんの名刺に印字されていた住所を、地図アプリを見ながら辿った。幸いこのあたりの道はますの目になっているので、曲がるところさえ間違わなければ迷わずお店に着けそうだった。


 果たして数分後、守梨と祐ちゃんは控えめな看板が掲げられた「マルチニール」の前にいた。


 白い外壁に黒い屋根。シックな外装だった。看板も華美では無く、シルバーの金属プレートに黒の文字で店名が英字とカタカナ両方が印字されているだけである。


 出入り口の脇にはメニューが書かれた黒板が立てられている。真鯛のカルパッチョや新玉ねぎのオニオンスープ、鶏肉と山菜のフリカッセ、ツナとうすいえんどうのファルファッレ、など。旬の素材が使われているから、季節限定なのだろうか。


 松村さんが独立してこのお店を開いた時、守梨はまだ未成年だった。両親はプレオープンに招待されていた。松村さんが日程を「テリア」の定休日に合わせてくれたのだ。


 もちろん守梨も招待してくれていたのだが、お酒のお店だということで辞退していた。その代わり、成人したら両親と一緒に行くと宣言していたのだ。それが叶わぬまま、両親は帰らぬ人となってしまったのだが。


 だから守梨は、もちろん祐ちゃんも「マルチニール」に来るのは初めてだった。時間を見ると21時少し前。ちょうど良いだろう。祐ちゃんがダークブラウンの木製のドアを開ける。するとドアベルが控えめに鳴った。


「いらっしゃいませ」


 白いシャツと黒のボトム、黒の腰エプロンの若い女性が笑顔で出迎えてくれた。長いであろう髪をうしろでまとめていて、清潔感を感じる。


「予約している春日です」


 祐ちゃんが言うと、女性は「はい」は小さく頷いた。


「お待ちしておりました。カウンタとテーブル、両方のご用意がございます。カウンタでしたら松村も折を見てお話ができると申しておりますが、どちらにされます?」


 祐ちゃんが後ろにいた守梨を振り返る。守梨に任せてくれると言うことだろう。


「カウンタでええやろか」


「ええで。じゃあカウンタで」


「はい。ご案内いたします」


 祐ちゃんが店員の女性に向き直ると、女性は優雅な仕草で守梨たちを促した。


 多国籍居酒屋だと聞いていたので、賑やかな店内を想像していたのだが、シックな外装のお陰か、あまり騒がしいお客は入って来ていない様だ。それとも今日がたまたまなのか。


 だが客層は良さそうだなと思った。表のメニューや外観を見ても、女性が好みそうなお店である。実際お客も若い女性やカップルが多かった。


 店内はそう広くは無い。4人掛けテーブル席が2セットに2人掛けテーブルが2セット、そしてカウンタ席である。外装と同じ様に白い壁と黒い柱でまとめられ、テーブルなどはドアと似通ったダークブラウンの木製のものだった。


 予約席はカウンタの奥だった。背もたれの高い椅子に腰掛けると、ほっと落ち着く様な気配がする。前は厨房に繋がっていて、ひとりのコックさんが忙しなく動いている。松村さんだった。ああ、懐かしい。まつりは目尻を下げた。

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