第3話 晴れて、ふたりに

 「テリア」から近いあびこ観音の本堂の前に立ち、守梨まもりゆうちゃんは並んで合掌する。


 今日は5月5日。「テリア」の再開日、そしてふたりの入籍日である。ふたりは観音さまに「テリア」の繁盛と、家内安全を願う。


 あびこ観音は通称だ。正式名称を「大聖観音寺だいしょうかんのんじ」と言い、およそ1400年前、聖徳太子により建立された、由緒ある日本最古の観音霊場である。


 境内には樹齢約800年の大きな楠木くすのきがあり、これが壮観である。大阪市の指定保存樹にも指定されているのだ。


 ご祈祷は年中行われているが、2月には節分厄除大法会が盛大に執り行われ、多くの参拝客が訪れる。


 「テリア」でも毎年護摩木ごまきたまわり、お焚き上げをしてもらっていた。


 お父さんとお母さんの件では、残念なことにその願いは叶えられなかったわけだが、それもまた神仏のお導きだと言うには、格好付け過ぎだろうか。


 これからは、守梨と祐ちゃんが「テリア」を守って行く。観音さまのお力も借りて、進んで行けたらと強く思う。


 あびこ観音に来る前、住吉すみよし区役所に行って、婚姻届を提出して来た。今日は祝日なのだが、宿日直室での提出が可能だと聞いていたので、そこにお願いしたのだ。


 これで、ふたりは晴れて正式に夫婦となったのである。なのでこの参拝は、夫婦ふたりで初めての共同作業と言えた。


 静かである。静謐せいひつと言うのだろうか。清涼で、ぴんと張り詰めていながらも、包み込まれる様なぬくもりを感じる。不思議な空気感が漂っていた。


「守梨」


 祐ちゃんのささやきの様な声が耳に届く。祐ちゃんはまっすぐに観音さまを見たまま言った。


「俺ら、絶対に幸せになれるで」


「……うん」


 守梨は静かに頷いた。




 祐ちゃんからの突然のプロポーズに守梨は大いに驚き、まさかそんなことになるだなんて思ってもみなかったから、すっかりと動揺してしどろもどろになってしまった。


 さすがにすぐには返事ができなかったので、祐ちゃんが帰ってから、コーヒーを淹れてじっくりと考えた。


 祐ちゃんのことは嫌いでは無い。むしろ好きだ。だがそれは、守梨にとっては恋愛感情では無かった。少なくともそれまで守梨はそう思っていた。


 だが本当にそうだったのだろうか。守梨は祐ちゃんにかなり頼っている自覚がある。昔からしっかりした人間性を持っていたが、特に両親の逝去せいきょからこっち、祐ちゃんがいてくれて良かったと思ったことが数えきれないぐらいにあった。


 祐ちゃんが「テリア」の料理人になると言ってくれた時は本当に嬉しかった。祐ちゃんとふたりで「テリア」を続けられる。それは守梨の心を踊らせなかったか。それはなぜか。


 ああ、自分はいつの間にか祐ちゃんに情が芽生えていたのだな、とようやく気付く。


 祐ちゃんが将来結婚をする、守梨以外の誰かと。それを予想した時、守梨の心のどこかが拒否をしていたはずだ。なのに守梨はそれをただの違和感だと片付けていた。


 自分の鈍感さが本当に嫌になる。あまり恋愛に興味は無いと思ってはいたし、これまでも自分から告白して異性とお付き合いをしたことも無かった。


 だからと言って、あまりにも自分の気持ちに無頓着過ぎた。


 だが、やっと自分の気持ちが分かったのだから、こうしてはいられない。守梨はスマートフォンに手を伸ばす。時間を見ると、まだそう遅く無い。守梨は祐ちゃんの電話番号を呼び出した。


「はい、守梨?」


 祐ちゃんはすぐに出てくれた。守梨はすぅと息を吸い込んで。


「祐ちゃん、いつもありがとう。結婚しよう!」


 ほがらかにそう言い放つと、電話の向こうで祐ちゃんが息を飲んだのが分かった。そして間も無く。


「うん、ありがとう」


 祐ちゃんの優しい声が守梨の心をくすぐり、多幸感に包まれた。




 あびこ観音を後にし、ふたりは「テリア」に戻る。着くと、外には壁に沿って花スタンドがいくつも並べられていた。色とりどりの花がお店を華やかに飾ってくれている。「マルチニール」名義のものもある。


 今はまだ開店前なのでビニールが掛けられているが、透明なのでその華美さは隠し切れないのだ。


「わぁ……」


 守梨は感嘆の声を上げる。まさかこんなにもたくさんの方が、再開を歓迎してくれるなんて。本当に頑張って良かったと、守梨は目を潤ませた。


「良かったな、守梨」


「祐ちゃんのお陰やよ」


 祐ちゃんも穏やかな表情で、花々を眺めた。きっと祐ちゃんの心も暖かなもので満たされている。


「とりあえず中入ろか。ただいま」


 そう言いながら祐ちゃんがドアを開けると「おかえり〜」と返って来た。守梨たちの外出中、祐ちゃんの両親、今日から守梨のお義父さんとお義母さんになったふたりに、留守番をお願いしていたのだ。


「新婚さんが帰って来たわ〜」


 椅子に悠然ゆうぜんと座るお義母さんのからかう様なせりふに、守梨は照れ臭くなり、祐ちゃんも照れているのか、しかめっ面を作って「やめい」と突っ込んだ。


「おじちゃ、ちゃうわ、お義父さん、お義母さん、お留守番ありがとう」


「全然やわ。時間あるしね。それにしても祐樹ゆうき、なぁにがお花の配達あっても2、3件やねん。引っ切り無しやんか」


 そんな愚痴めいたことを言うお義母さんだが、その表情は晴れやかである。


「ごめんお義母さん、私もまさかこんなにいただけるなんて思わへんかったから」


「全然ええんよ〜。そんだけここがたくさんの人に慕われてるってことやもんねぇ。私も鼻が高いわぁ。さすが春日さんやで」


「ありがとう、お義母さん」


 するとお義母さんは守梨をじっと見て、「いい!」とこぶしを作った。何事かと守梨は目を丸くする。


「守梨ちゃんにお義母さんて呼ばれるん、めっちゃええ! 感動やわぁ〜」


 そう力説する。お義父さんも「はっはっは」と和やかに笑っている。


「母さんの気持ちも分かるけどな。僕も嬉しいもん。けどま、それぐらいにして、そろそろおいとませんと、僕ら邪魔になるで」


「あ、そやな。これから仕込みやもんな」


 お義母さんも切り替えは早かった。ふたりは立ち上がる。


「祐樹、守梨ちゃんのこと幸せにせんと承知せんからな」


「分かっとるわ。つか母さん、誰の親やねん」


 祐ちゃんが苦笑すると、お義母さんはにっこりと微笑んだ。


「ほな帰ろか。表のお花、たくさん無くなったらええね。最近はこの習慣少ななったって聞いたけど、こういうんは縁起物やから」


「うん」


 大阪や名古屋、他一部地域では、開店祝いのお花は持ち帰りすることができて、それが無くなれば無くなるほど、お店が繁盛すると言われているのだ。


「さ、開店準備しよか」


「そやね」


 お義父さんたちが帰って行き、守梨たちは支度に取り掛かった。

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