第9話 引き継ぐために

 俺がやります。


 ゆうちゃんが強く言い切り、その眼差しが松村まつむらさんと交差する。松村さんも驚いた様で目を丸くしたが、次第に挑む様に細められる。


「料理の経験は?」


「今は家事程度です。でもこれから習うなりして励みます」


「簡単なことや無いよ。解ってる?」


「もちろんです」


 祐ちゃんと松村さんは互いに一歩も譲らないと言う様に睨み合う。守梨まもりは口を挟むこともできず、はらはらしながら見守るしか無かった。


「……祐樹ゆうきくん、それがどういうことか、解ってる?」


「はい」


 祐ちゃんの意思は固い様に思える。守梨は祐ちゃんとの付き合いは長いが、お料理の腕前は判らない。学校の授業以外に知る機会は無かった。だがこう言い切ることができるのは、自信があると言うことなのだろう。


 守梨としては、これからも祐ちゃんがそばにいてくれるのは心強い。これまでも、特にここ最近は特に甘えてしまっている自覚はあるが、まだひとりで立っていられる自信が無いのだ。


 そしてかけがえのないドミグラスソースを祐ちゃんが引き継いでくれるのなら、守ってくれるのなら、それは守梨にとって何よりも嬉しいことである。


 また頼ってしまって申し訳無いと思うのだが、心が弱ってしまっている今は、どうしても寄りかかれるところが欲しいと思ってしまうのだ。それを祐ちゃんひとりに覆い被せてしまうのは、本当に不甲斐無いのだが。


「祐ちゃん、ほんまにええの? でもそれって」


 守梨がおずおずと聞くと、祐ちゃんは守梨を見て、口の端をゆるりと上げた。


「大丈夫や。俺ができる限りのことをするから」


 そう言われ、守梨はまた安堵する。お父さんのドミグラスソースを取り戻せるかも知れない。それは守梨にとって大きな希望だった。


 駄目だと解っているのに、どうしても祐ちゃんにすがる様な目を向けてしまう。本当に情けない。お料理下手であっても、自分で食らいつかなければならないのでは無いだろうか。


 守梨がそう思い始めた時、松村さんが「よっしゃ」と声を上げた。


「それやったら祐樹くん、良かったら土曜日にうちに修行に来るか? 平日は仕事やろうし、週に1日の休みは最低限要るからな。それでも大変になるやろうけど、やるか?」


「それはありがたいですけど、でも」


 祐ちゃんは戸惑っている様子である。


「祐樹くんやったら信用できるし、家事並みに料理できるんやったら、仕込みの時に役に立ってくれそうや。土曜日はこの界隈休みの会社も多いから、営業は夜だけやし、それもそんな混むことも無いから、いろいろ教えられると思う。もちろん春日さん直伝のデミグラスソースの継ぎ足し方もな。あ、給料は小遣い並みにしか出せんけど」


 松村さんはきっと面倒見が良いのだろう。でなければいくら既知とは言え、こんなことを言い出さないだろう。祐ちゃんは確かに家事の範疇なんちゅうでのお料理はできるかも知れないが、お店となるとその要領はまるで変わって来ると思う。


 ここは松村さんのお城である。コックが松村さんひとりで、言うなれば自分のやりやすい様にできると言うことだ。そこに素人同然の祐ちゃんが入ることは負担だろう。


 祐ちゃんもきっとそれが解っているのだろう。


「給料はええんです。むしろいただけません。けど、俺が足引っ張ってしもたら」


 祐ちゃんは考え込んでしまう。そんな祐ちゃんを松村さんは笑い飛ばした。


「そんなん、誰かて最初は巧くできひんよ。私かて「テリア」入った時、イタリアンでの経験はあったけど、店によってオペレーションはちゃうからな。慣れるまでは春日さんに迷惑かて掛けてもた。やからこそや。私、春日かすがさんにろくに恩返しもできひんかったからな。祐樹くんを鍛えることが、今私ができる恩返しやわ」


 松村さんの声は明るい。ふところの深さを感じさせるものだった。それで祐ちゃんも決心したのだろう。


「よろしくお願いします!」


 そう言って、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 守梨もしっかりとお辞儀をする。本当にありがたい。これでお父さんのドミグラスソースを手元に置ける可能性が出て来た。正確には祐ちゃんが引き継ぐことになるのだが、食べたい時に気軽にもらいに行けるのは大きい。


「祐ちゃん、ありがとう」


 守梨が言うと、祐ちゃんは微笑んで、頭をぽんぽんと撫でてくれた。




 松村さんの「マルチニール」を辞し、あびこ駅に帰り着いた時には23時を回っていた。


「暗いし送ってくわ」


「ひとりで大丈夫やで」


「いや、もう遅いし」


 守梨も飲み会の後など、これぐらいの時間に帰って来ることは時々あった。そんな時はもちろんひとりで深夜の道を歩く。街灯もあるので平気なのだが。


「行こか」


 祐ちゃんは言って、守梨の家の方向に歩き出す。


 あびこ駅はあびこ筋沿いにある。それを境に祐ちゃんのマンションはあびこ中央商店街の方向に、守梨の家、要は「テリア」はあびこ観音の方向にあり、逆方向なのである。なので余計に送ってもらうのは心苦しかった。


 だが祐ちゃんは守梨を待ちながらゆっくりと歩いて行く。守梨は少し足を早めて祐ちゃんに追い付いた。


「ありがとう」


「うん」


 そして数分後、無事家にたどり着く。


「じゃあな、また明日」


「うん。また。ありがとうね。気を付けて」


「おう」


 守梨は祐ちゃんの背中を見送る。その背はとても頼もしく見えた。そして明日も来てくれるのかと、そんな嬉しさが胸に広がった。

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