第2話 息を吹き返して

 ゆうちゃんが幽霊となったお父さんにお料理の手ほどきをしてもらう初日。それは月曜日の夜から始まった。


 守梨まもりは祐ちゃんたちの邪魔にならない様にと、厨房の片隅に置いた丸椅子に掛けている。何だか緊張してしまって、顔が強張ってしまう。実際に教えてもらって作るのは祐ちゃんだというのに。


 祐ちゃんはそんな守梨を見ておかしかったのか、ゆるりと口角を上げた。


「おやっさん、お袋さん、よろしくお願いします」


 そう言って祐ちゃんが頭を下げる先に、きっとお父さんとお母さんがいるのだ。守梨はそこに目を凝らす。やはり見えないのだが。分かり切っていても、望みを捨てられなかった。


 それから祐ちゃんは目線をあまり動かさないまま、何やら頷いたり笑みを浮かべたりしている。ふたりの話を聞いているのだろう。羨ましい。自分の「当たり前」の体質が、こんな時には恨めしい。


 祐ちゃんは言っていた。幽霊には時間制限があるのだと。それが数日なのか数年なのかは個体差があるそうなのだが、幽霊が「正常」なままこの世に留まることができる時間は、そう長くないらしい。


 また両親との別れがやって来るなんて、絶望しそうになる。だがもうふたりの肉体は失われてしまっていて、生き返ることはあり得ないのだし、時間を掛けてでもそれを受け入れなければならないのだろう。


 その時にも、祐ちゃんがそばにいてくれたら、心強いなと思う。


 ……ああ、いけない。また祐ちゃんに甘えてしまっている。守梨はそんな弱い自分を打ち消す様に、こぶしで太ももをぽこぽこと殴り付けた。


 祐ちゃんは、だからこそ時間が惜しいのだと言っていた。限りがあるからこそ、その間にできる限りお父さんの技術を受け継ぎたいと言っている。


 土曜日の晩は松村さんの「マルチニール」で修行をすることになっているので、他の平日の毎晩をお父さんに習う日に決めた。


 祐ちゃんは日曜日を休むことすら勿体無いと言ったのだが、それはさすがに身体に無理があることは本人がいちばん解っている。祐ちゃんは守梨と同じ25歳で、若いから多少の無理は効くだろうが、身体を壊す様なことがあっては大変である。


 続けて行くことが大事だからと、祐ちゃんも言っていた。


 やがて祐ちゃんは「はい」と頷くと、作業台の上に置いたエコバッグから食材を取り出した。鶏肉とスナップえんどう、春人参にオレンジである。祐ちゃんが仕事帰りにあびこ駅近くのスーパーで買い込んで来たものた。


 年中食べられる人参だが、貯蔵されていない春の人参は瑞々しい。お父さんは「テリア」にも旬の食材をたくさん取り入れていた。春人参は火を通すのが勿体無いと、お父さんは生のままラペにしていた。


「ラペってあれやんねぇ? 確か、人参を千切りにしたサラダ」


 守梨が聞くと、お父さんは嬉しそうに微笑む。


「そうやな。ラペはな、おろし器でおろすっちゅう意味やねん。キャロットラペはフランスの定番の惣菜やな」


 そんなことを教えてくれた。


 今夜はそんな春人参のラペが食べられるのだろうか。守梨はつい期待してしまう。


 調理台の上には、調味料も揃えられていた。お父さんが生前「テリア」で使っていたものである。食材を片付けた時に上に持ってあがっていたのだが、祐ちゃんが厨房を使うので、また下ろしたのだ。


 悪くなってしまった食材は処分し、日持ちするものは上に引き上げた。守梨の手に余りそうなものは、祐ちゃんのお母さんに引き取ってもらったりした。


 調味料群もそのひとつである。基本のお塩やお砂糖、黒こしょうに白こしょう、ワインビネガーにバルサミコ酢、そしてオリーブオイルにグレープシードオイル、マスタード、バター、ワインなど。


 お父さんはフランス製の調味料を厳選していたが、そう凝ったものを駆使していたわけでは無い。なので簡単な炒め物に使ったり、オイルやビネガーならドレッシングにしたりして使おうと思っていたのだ。それならどうにか守梨にも手に負える。


 だが祐ちゃんがお父さんに続いて使ってくれるなら、その方がずっと良い。その方がずっと美味しくしてくれる。


 バターとマスタード、ビネガー類はあらためて電源を入れた業務用冷蔵庫に収めた。久しぶりに息を吹き返したかと、守梨はヴンと小さな駆動音を立てる冷蔵庫を愛しげに撫でたものだった。


 祐ちゃんが作業台の下の収納庫からまな板と牛刀ぎゅうとう包丁、スライサーを出した。そろそろ調理に入るのだろうか。守梨はどきどきわくわくして、前のめりになってしまう。


「……はい」


 祐ちゃんが真剣な表情で頷いた。

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