2章 なりたいものになるために
第1話 取り戻した夢、そして
そして小学5年の時、守梨の両親がビストロを経営することになって引っ越しをしたので、隣同士では無くなった。
それでも同じあびこに住んでいたこと、本来なら学区が変わった守梨が特別措置で転校せずに済んだこと、そして両親同士の交流が途絶えなかったこともあって、祐樹と守梨の付き合いも続いた。
特に祐樹は、シェフとなった守梨のおやっさんの仕事に興味があった。だが実際大学を出て就職したのは広告代理店で、研修が終わって配属されたのは人事部門である。
ディレクションやクリエイティブなどの部署とは違い、残業も少なめで、その分やりがいがあるのかどうかが良く分からなかった。やりがいなんて自分で探すものだと言われたりもするが、それは自分に合った仕事かどうかも大きく関わって来る。
それでも月々安定した給料をもらえるし、仕事内容もそう悪くは無かった。淡々とした作業は自分に向いているのだろう。
祐樹はまだ25歳の若手なので、採用などもそう責任のある仕事を振られることは無い。それでも面接官として末席にいると、いろいろな人がいるものだなと、考えさせられる。
守梨のおやっさんとお袋さんがビストロ「テリア」を始めてから、定休日の火曜になると学校終わりに守梨の家を訪ね、おやっさんが料理をしているところを見たいと言うと、
「ちょうどええから、晩ごはん作ろか」
おやっさんは楽しそうに言うと、祐樹を連れて厨房に降り、冷蔵庫から出した食材で洋風の煮込みなどを作ってくれた。
当時の祐樹にフレンチなんて分かるはずも無い。それでもおやっさんは丁寧に説明をしながら、作るところを見せてくれた。そしてできあがった煮込みは半分をタッパーに入れ、持たせてくれた。
それはその日の原口家の夕飯の一品になった。それは中学校を卒業するまで続いた。高校生になったら部活動が忙しくなり、行く時間が無くなってしまったのだ。
その時は何も考えず、ただありがたくもらっていたのだが、後になって母親が材料費を渡していたことを知った。働き始めてから、母親と話し合って半額ほどを返している。
おやっさんが手がけた料理はどれも本当に美味しかった。トマト煮込みやクリーム煮、ワイン煮やビネガー煮、ドミグラスソースを使ったものなど。母親があまり使わなかったホルモンやレバーの美味しさを知ったのも、おやっさんの煮込みだった。
ワインやビネガーをメインにした煮込みなどは子ども向けでは無かっただろうが、おやっさんが子どもでも食べられる様に調味をしてくれていたのだろう。
そうして子どものころからおやっさんの味に慣れ親しんだ祐樹にとって、おやっさんの味がフレンチの基本になったのだ。
おやっさんは祐樹に包丁も持たせてくれた。小学5年から家庭科の授業が始まり、そこででも使い方を習うのだが、その時に使うのは一般的な
なのでおやっさんは、三徳包丁に近いからと、
玉ねぎのみじん切りや千切りなど、学校の授業でも習っていない様な切り方も教えてくれた。それは本当に充実した時間だった。
だと言うのに、どうして自分は料理人を目指さなかったのか。
それは単に、おやっさんの様な料理人になれる自信が無かったからだ。おやっさんの味に惚れて弟子入りした料理人だっているほどなのである。「テリア」だって毎晩お客でいっぱいだと聞く。グルメサイトの採点だって高得点だ。おやっさんはそれほどのレベルの料理人なのだった。
守梨に情けないところを見られたく無いという、今にして思えば見栄っ張りで馬鹿馬鹿しい思いもあったのだ。だがおやっさんに並び立てなければ、料理人を志す意味が無いと思っていた。本当におこがましい話である。
だが、おやっさんとお袋さんが事故で
守梨が突然の悲劇に深く沈み込んでしまい。
ドミグラスソースが駄目になり、守梨が自分を責めてしまって。
このままではいけないと。
おやっさんの、「テリア」のドミグラスソースが、松村さんのお店に株分けされていたのは知っていたから、守梨と行ける様に仕向けた。
まさかおやっさんとお袋さんが成仏せずに、「テリア」で
松村さんの「マルチニール」で、おやっさんの味が忠実に守られたドミグラスソースのビーフシチューを口にした時。
祐樹は決意したのだ。自分がおやっさんの跡を継ぐと。ドミグラスソースを受け継ぐと。
そうすることが守梨のためになると、力になれると思ったのだ。
自分にそこまでの実力があるかなんて分からない。以前おやっさんに「筋がええ」なんて言ってもらえたが、そんなのは素人を喜ばせるためのお世辞だ。
だが食らい付いてみせる。例えおやっさんの様な料理人にはなれなくても、せめてドミグラスソースを守れる技術は身に付けよう。
それは、祐樹が夢を取り戻した瞬間でもあった。
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