第10話 それは早過ぎた

「今日はええ材料使うで」


 ゆうちゃんはそう言って、買い物に出掛けて行った。結局材料費は折半することになった。


 リビングで榊原さかきばらさんとふたりきりになった守梨まもりだが、榊原さんは奥さまに連絡したあと、「テリア」での思い出話をたくさん聞かせてくれた。


「実はね、奥さんにプロポーズしたんも「テリア」でやったんですよ」


 照れながらそんなお話をしてくれ、守梨は「素敵ですね!」と顔を綻ばせた。


「僕はあびこ在住が長くて、ここが工事してはったんも見てたんです。何ができるんやろって。で、いざオープンしたらなんや敷居の高そうなお店でしょう。でも店の前通ったらほんまにええ匂いで。ええなぁて思いながら、隣の小料理屋に入ったり」


 隣の小料理屋とは、「テリア」のドアのガラスが割られていることを教えてくれた、山内さんご夫妻が経営するお店である。店名を「小料理屋 やまうち」と言う。


 「テリア」もビストロなので、そうかしこまったお店では無い。だが男性にしてみれば入りにくいのかも知れない。


「「やまうち」の料理ももちろん美味しいんですけど、「テリア」は憧れでした。せやので奥さんにプロポーズするっちゅう一大事に予約入れさしてもろうて。で、無事プロポーズを受けてもろうて、それから月に1度、給料日辺りに奥さんと来る様になったんです。いざ入ってみたら給仕してくれはる奥さんは気さくで、たまに出てきはるシェフは無口なイメージでしたけど、穏やかな雰囲気でね。料理も思ったより高くなくて、でも美味しゅうて」


「そんな大事な日にうちを使っていただいて、ほんまに嬉しいです」


「いやぁ、月いちの「テリア」を楽しみに、日々過ごしとった様なもんです。せやからよりにもよってご両親のご不幸で閉店されるなんて、ほんまに驚いて」


「……急なことでしたから」


 守梨は目を伏せて苦笑いを浮かべてしまう。両親がまだまだ続けたかっただろう「テリア」。今は守梨が守ろうとしている。榊原さんだけで無く、他にも大切にしてくれているご常連もいただろう。それを思うと胸が痛む。


 両親はくには早過ぎた。そんな未来を想像したことなんて無かった。急な病気や事故、その可能性を見据えてはいなかった。


 それだけ両親は日々元気だった。笑顔で働いていた。きっと充実した毎日だっただろう。そんなふたりに突然の死という影を見ることはあり得なかったのだ。


 だが現実として事故は起こり、両親の身体は喪われ、「テリア」は閉店のき目にった。致し方ないと言うのはあまりにもむごい。


 打ちのめされて、悲しくて、悔しくて、まぶたが真っ赤に晴れるまで泣いて。


 祐ちゃんがいなければ、両親が幽霊という形であっても帰ってきてくれなければ、守梨はどうなっていただろうか。


 両親の逝去せいきょから約4ヶ月。決して癒されるのに充分な時間では無いだろう。だが今、守梨がこうして立っていられるのは、祐ちゃんと両親の存在、そして「テリア」を再開させるという気概きがいがあるからだ。


「あの、今、私、「テリア」を再開させようと思って、準備中なんです」


 守梨が言うと、榊原さんは「そうなんですか?」と目を丸くした。


「はい。やらなあかんことはまだまだあるんですけど、再開できたら、また榊原さんと奥さまに来ていただきたいです」


「それはもちろん! うわぁ、嬉しいなぁ。あ、でもシェフが変わるんやな。ほな味も変わるってことですか?」


 榊原さんは表情を輝かすが、途端に思い至ったことに残念そうに目尻を下げた。


「そうならんように、今、私もお父さんのレシピを勉強中なんです」


「ほなシェフはお嬢さんが? あれ? でも原口はらぐちくんが練習中って」


「私はお料理全然だめで、新たに探すことになるんです。祐ちゃんはお父さんのドミグラスソースを守るために、お料理練習してくれとって」


「ああ、ドミグラスソース。ビーフシチューとか作る時に使うやつですよね。「テリア」のビーフシチューは天下一品やと思います。ほな、原口くんは責任重大ですね」


「ほんまにすっかり頼ってしもうて。でも心強いです」


「ええ幼馴染みですね」


「はい」


 その通りで、自分は本当に果報者だとしみじみ思う。こんなにも支えられて、いたわってもらえて。いつか必ず恩返しができたらと思っている。


 その時、インターフォンが鳴った。


「あ、原口くんが帰って来たやろか」


「いえ、きっと奥さまですよ。祐ちゃんは合鍵持ってるんで」


「……ほう」


 榊原さんが、また目を丸くした。

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