第2話 ちくりとするもの
飲食店の開業セミナーが終わりに近付くころ、季節は秋に入ろうとしていた。残暑はまだ濃く、湿度も気温も高めではあるのだが、ふと吹く涼やかな風や、出始めた旬の食材などが秋を感じさせた。
社内で仲の良い同僚などは事情を分かってくれているので、ここしばらくは木曜日に誘ってくれたりしている。
その副産物として、実は平日の飲み会の方が、負担が少ないことが分かった。翌日が休みとなると羽目を外しがちになってしまうのだが、仕事となると自然とセーブするのだ。
そうすると帰りもそう遅くならないし、二日酔いの心配もほとんど無い。「テリア」再開の準備を始めてから明らかに休みは少ないのだが、身体の調子は悪く無いのである。
今日は金曜日。定時の17時に仕事を終えた守梨は、セミナー会場に向かう。場所はなんばである。ビルにある会議室の一室が教室になっていた。
守梨が勤める会社は
セミナーは18時からなので、守梨は御堂筋をのんびりと歩いて南下する。途中のコンビニで軽食を買うのもルーティンだ。会場は17時から解放されているので、そこでいただいている。
今日はミックスサンドイッチとミルクティのペットボトルを買った。ごみの問題などから考えても、どうしてもサンドイッチやパン、おにぎりなどに偏ってしまう。だがこれだと匂いも出にくい。さすがにパスタなどを食べて、会場に匂いを残すことはできないのである。
エコバッグをがさごそさせながら歩いていると、後ろから声を掛けられる。
「春日さん」
立ち止まって振り向くと、同じセミナーを受けている
「栗田さん、こんばんは。お疲れさまです」
「お疲れさまです。毎週仕事のあとのセミナーって大変ですよねぇ」
「そうですねぇ」
行き先は同じである。守梨たちは並んで歩き出す。栗田さんはいつも守梨と前後して会場に到着する。セミナーが始まるまで少し時間があるのだが、その時間を栗田さんは予習に当てていた。
栗田さんも当然ながら飲食店開業を目指していて、今は朝から16時まで
北新地は大阪が誇る歓楽街である。場所は
だが景気が落ち込んでから、リーズナブルな居酒屋やガールズバー、チェーンの飲食店も増えた。奥に入ればまだまだ手の届きそうに無いお店もあるが、ずいぶんと親しみやすくなったと言える。時代に合わせて遂げた変化を発展と取るか衰退と取るかは、きっと人それぞれなのだろう。
栗田さんはおそらく30歳前後。料亭での修行を経て、独立を考えてセミナーに通っているのだ。
「セミナーもそろそろ終わりですね。春日さんはお家を継がはるんですよね?」
「そうです」
「ええですねぇ。もうお店があるって。私はこれからですよ。お金の
それは栗田さんにとってはきっと何気無いせりふだった。悪気なんてこれっぽっちも無いだろう。だが守梨の胸に、
確かに栗田さんの様に、これから開業を考えている人のほとんどが、融資を受けたりテナントを借りたり改装したり信用を作ったりと、大変なことばかりだろう。そういう意味では、すでに店舗が自分のものである守梨は恵まれていると言える。
だが、「テリア」は両親の遺産なのである。幽霊となって帰って来てくれてはいるものの、ふたりがもうこの世のもので無いことは、どうにも事実として重く、守梨はセミナーの講師にすら言っていない。
だから栗田さんが守梨を
だが信用は、守梨もこれから築いて行かねばならないのだ。お客さまが親しんでくれているのは今までの「テリア」であり、お父さんとお母さんが
再開するとしたら、お客さまは当たり前の様に同じものを期待する。それを保つのが守梨に課せられた最低限なのである。
確かに守梨は、お店のお手伝いをしたことはある。ある程度の雰囲気は掴んでいる。だからと言って自分が同じ様にできると思えるほど、守梨は楽天的では無い。
セミナーが進むにつれ、本当に自分に「テリア」が支えられるのかと、不安になることもある。
それを思うとプレッシャーだってある。「テリア」を潰さない、お客さまの期待に応える、そのふたつが守梨の両肩にあるのだ。
だがそれを栗田さんに言おうとは思わない。栗田さんには栗田さんの思うところがあり、苦労がある。守梨の環境と比べられるものでは無いのである。
「いちからお店を作る楽しみっちゅうんも、あるんとちゃいます? こんな内装にしようとか、楽しそうですよね」
守梨が笑顔でそう言うと、栗田さんは「そうなんですよ。純和風な内装にしたくて〜」と、楽しそうに自分の夢を語り出した。
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