第6話 思い当たらぬこと

 平日をお父さんとゆうちゃんのお料理を励みに乗り越え、また土曜日がやって来る。お昼ごはんを片付けまで済ますと時間ができる。また守梨まもりはお父さんのレシピを開いた。


 クリーム煮は、フランスではブランケットと言われる。仔牛や鶏肉、鮭や海老などをメインとしたものが多い様だ。


 しかし実は、ブランケットとは「白く仕上げた」「白い煮込み」という意味らしい。なので白ワイン煮込みなどもブランケットなのだそうだ。


 日本ではフリカッセとも呼ばれるが、このふたつの差として、ブランケットは煮込むだけ、フリカッセは炒めて煮込む、という調理法の違いがあるのだそう。


 フレンチは突き詰めて行けば、本当に奥が深いのだろう。だが「テリア」はビストロで、あまり気取ったお店では無い。知識は重要だが、まず必要なのは「テリア」に関わる知識だ。今はいろいろなことを少しずつ掘り下げて行きたい。


 このブランケットにはどんなワインが合うだろうか。基本、お肉なら赤ワイン、お魚なら白ワインと言われたりもするが、ブランケットやフリカッセなら、お肉であっても白ワインが合うと思う。逆にトマト煮込みなどなら、魚介であっても赤ワインが合いそうな気がする。


 白ワインにもすっきりとした辛口のものから甘めのもの、赤ワインにもあっさりした飲み口のものからどっしりとした重たいものまである。貴腐ワインなどはフルーツの様に甘いし、ロゼはまた違う味わいである。


 しかし赤ワインが好きなお客さまなら、ブランケットを食しても赤ワインを合わせるだろうし。そこはやはり好みなのである。そう言ってしまえば身も蓋もないのだろうが、お酒は好きなものを楽しむことが大前提である。


 「テリア」はそういうものを提供するお店である。食は確かに生命を繋ぐのに必要なものだが、ビストロとは言えフレンチなのだから、日常よりは贅沢品だと守梨は認識している。そしてお酒であるワインも、嗜好品なのだから無くても良いものだ。


 そうした非日常を堪能していただくために「テリア」はあるのだし、両親は過ごしやすい空間作りを心掛けていたはずだ。それは守梨も肝に銘じ、引き継いで行かなければならない。


 レシピを読みながら、ぶつぶつと声に出していると、インターフォンが鳴った。守梨はリビングに向かう。


「はい。どちらさまですか?」


「梨本と言います。店の常連で、ふたりに香典を持って来たんですが」


 神経質そうな男性の声である。先週も同じことがあったな。守梨は不思議な感覚になりながらも「お待ちください」と玄関に向かった。


 チェーンを掛ける習慣は続いている。ガラスの一件から数日が経ち、徐々に警戒心は薄れているが、警察から音沙汰が無いこともあり、まだ用心はしなければと思っている。


 守梨はやはり念のため、チェーンを掛けたままドアを開けた。失礼かとは思うのだが、身を守ることは大事である。


「お待たせしました。チェーンのままですいません」


「いえいえ、こちらは慰謝料さえ払ろてもらえればええんで」


 慰謝料? 守梨は頭が真っ白になる。思いもよらぬ単語が飛び出て、思考がはたと止まった。


 守梨が黙っているからか、相手の男性はドアの隙間から顔をのぞかせた。目の細い、声の印象の通りの風貌だった。かと思えば見えたシャツは派手な柄のもので、とてもでは無いが普通の人には見えなかった。


「いーしゃーりょーおー。耳揃えて払わんかい。親のやったことは子の責任やろがい」


 ねっとりとした声でそう凄まれ、守梨は恐怖を覚えた。額にじわりと汗が滲む。こういう時はどうしたら良い。回らない頭を必死で巡らそうとする。


 親のやったこと。お父さんかお母さん、もしくはふたりは、この男性と何かがあったのだろうか。いや、今はそんなことはどうでも良い。どうしたら、どうしたら。


 その時、ガラスを割られた時のことを思い出した。その記憶から繋がるのは。


「け、警察を呼びます……!」


 震える声で、そう言うのが精一杯だった。怖くて顔を上げることができない。男の顔が見れない。身体が硬直している。


「……ちっ」


 男性は忌々しそうに舌打ちすると、顔を引っ込めた。その姿が見えなくなって、気配が遠のいて行き、守梨はふらつきながら後ずさって、上がり框にぺたんと尻餅を付いた。


 身体から力が抜ける。そうすると急に震えが上がって来た。恐怖心で目が潤む。


 慰謝料とはどういうことだ。一体両親の存命中に何があったと言うのだろうか。少なくとも守梨は聞いていないし、心当たりも無い。そこに「支払え」と言われても、混乱するだけだ。


 ああしかし、あの時はとっさにああ言ったものの、警察には届けた方が良いだろう。ガラスの件で来てくれた警察官の人は、話を聞いてくれるだろうか。守梨はう様にして階段を上がって行った。

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