第19話

 着慣れないジャケットに袖を通す。

 今日、出かける準備を始めるまでは、ご褒美としての単一の喜びばかりが勝っていた。しかし、いざとなると、途端に客観性が顔を出す。

 女子と二人で待ち合わせをして、隣町まで遊びに行く。それは一般的にはデートと呼ぶのではないか。交際している相手とのお出かけをそう呼ぶのか。お互いの感情があればクラスメイトでも成立するのか。

 考え始めたら、もうダメだった。待ち合わせ場所についたころには、ちっとも落ち着かなくなって、やたらと時間を確認してしまう。しかし、そうやってスマホを弄っているのもどうなんだと思い始めるとやれなくなる。

 結局、セットした髪を馬鹿みたいに触り続ける羽目に陥った。待ち合わせで居合わせた人たちには、ナルシストだと思われていたかもしれない。それでも、他に時間を潰す方法が見つからなかった。

 そもそも、準備中に気がついてしまったものだから、家を出るのも早くなってしまったのだ。三十分前には待ち合わせの駅前にたどり着いていた。それこそ、デートに浮かれる男の所業で、より一層自分の首を絞める。一瞬、中止にしてもらうかというとんでもない発想にまで飛んだくらいに、落ち着かなくなっていた。

 そこに飛び込んできた小さな足音が鼓膜を揺らす。汐里のものだって確証なんかあるわけがない。ないが、わけもなくそうであると確信を持って、そちらへ視線を向ける。そして、そこには想像した以上の女の子が立っていた。

 薄すみれ色の脛丈の半袖ワンピースに、白いソックスに黒いパンプス。長い濡れ羽色の髪が美しく広がっていて、汐里の存在をくっきりと浮かび上がらせる。

 学校での姿と大きく違うわけではない。印象がガラッと変わっているわけでもない、はずだ。けれど、その可愛さは倍加以上に見えた。シチュエーションに飲まれているだけかもしれない。

 だが、見えるものは見えるのだから、惚けてしまうのも仕方がなかった。


「待った?」

「いや……」


 いやって何だ。デートかよ。認めるか認めないかというところで、意識が止まっていたはずだった。その回答がつらっと零れる。それほど惚けていたのだ。


「さっき着いたところ。……似合うな」


 デートだと認識したからか否か。いや、そうではないのだけれど。けれど、そう思えば、口にすべき言葉は見つかる。初めて見る私服姿の汐里を前に、ノーコメントってわけにはいかない。

 見惚れていたとしても、口に出さなければ伝えていないのと同じだ。推し活をしていると、それは身に沁みて分かる。


「そうかな? 蛍君だって、いつもよりずっとかっこいいよ」

「……いつもかっこいいと思ってるなんて知らなかった」


 余計なことを言っていると思ったが、一度口に出したものは戻ってこない。苦虫を噛み潰した俺を前にして、汐里は何食わぬ顔をしていた。


「え、蛍君、かっこいいでしょ?」

「は、え?」


 気負わずに言い放つものだから、ぽかんと口を開く。自分で言っておいてなんだが、そんな言葉が返ってくるとは思っていない。戯れに過ぎなかった。ジョークだ。それをまともに打ち返されて、言葉もない。

 汐里は目を瞬く。自分が男を喜ばせるセリフを吐いた自覚などないようだった。


「どうしたの?」

「……いや、ありがとう。汐里も可愛いよ。今日はいつもとまた違って、ワンピースも似合ってて可愛い」


 向こうが口にするなら、こっちだって秘めておく理由はない。言われっぱなしってのは、性に合わなかった。

 そして、汐里は言われたことで、自分の発言を省みたようだ。ぼふんと顔を真っ赤にした。元が陶器のように白いので、首筋まで真っ赤なのがよく分かる。いっそ不憫なほど可愛い。


「あ、アリガトウ」


 はくはくと開閉される唇は、金魚のようだ。可愛いのは一瞬たりともなくならないが、いつまでもこうして褒め合っているわけにもいかない。とんだバカップルだ。自覚すると、こちらまで顔が熱くなる。


「よし、もう、行こうか」


 赤べこのように縦に首を振る汐里を見届けてから、ご褒美への第一歩を踏み出した。




 しばらくは甘ったるい空気に飲まれて、やきもきしていた。しかし、文具店にたどり着けば、そんなものは一瞬で吹き飛ぶ。俺だって大概だったが、汐里のそれは比較にならなかった。

 大きな文具店は複数階のある店舗だ。文具だけが置かれているわけではないが、その品揃えは言うに及ばずだった。

 汐里はその商品棚をひとつひとつ丁寧に見て回る。何度も立ち止まっては悩んで、手に取って戻して、一度離れた棚に戻って、とそのちょこまかとした動きは見ていて飽きないくらいだった。

 まぁ、それは俺だって同じようなものだったから、呑気に思えているだけだろう。アクセサリーや衣服だった場合、今のように穏当な気持ちでいられたかの自信はない。趣味が合致しているからこその和やかな時間の浪費だ。

 財布との相談も加味すれば、時間がかかるのは当然で、俺たちはマステだシールだペンだリフィルだノートだインクだなんだとあちこちを見て回り続けた。

 梯子のために早く出たつもりだったが、はたして梯子する時間があるのか。そのくらいの時間のかけ方になってしまっていた。

 俺は日常使いしている蛍光ペンを補充して、それからマンスリー手帳。それに使えるシールを数枚。マステにも魅力も感じたが、使い勝手が分からない。知識としては知っているが、使いこなせるとは思えなかった。それよりは、と手帳に添えるボールペンを見繕った。

 汐里とは別行動だ。視界の端に姿を捉えるようにはしていたが、べったりすることもなかったし、ふとした瞬間に姿を見失うこともあった。

 そうしたマイペースさもあって、デート感は薄まっている。俺が余裕を取り戻したのは、そうした面もあっただろう。自分の買い物に集中していられた。

 そうして、じっくりと吟味してから、俺は汐里に合流する。汐里は合流したことに気がついていない。店内であっても、集中力は途切れないようだ。それだけ無我夢中であるのだと思えば微笑ましい。

 俺はいつかのように、汐里の様子を見つめていた。汐里はやっぱり気がつかない。この癖は、直させたほうがいいだろうな。

 校内ではあまり気にならなかった。それは机に座っていて所在がはっきりしているし、異分子が近付いてくればすぐに分かる環境だからだ。だが、外では所在がはっきりしないし、誰とだってかち合うことがある。危険だ。人目を惹くことは、ここまでの移動で分かっている。放置しておくことはできない。

 そりゃ、本当は女性側だけに防衛意識を持つように言いつけるのは違うのだろうけど。けれど、この集中力は危険だ。仮に性的な問題でないにしても、問題はあるだろう。

 むむむと顎に皺を寄せながら、マステを見ているその横へと忍び寄った。腰を抱くこともできるほどに近付いても、汐里は気がつかない。眉間に皺を寄せた。


「汐里」

「んー」


 かろうじて、音は拾っているらしい。だが、到底返事とは思えないものが返ってくる。皺が寄り過ぎてこのまま溝で紙くらいなら挟めてしまえそうだ。


「汐里」


 再度呼びかけて、肩に腕を回す。抱き寄せるような真似ができてしまった自分の大胆さに驚きが隠せない。汐里はようやく商品棚から視線を離して、顔ごとこちらを向いた。そして、状況を整理して頬に火がつく。


「な、なにしてるの、蛍君」

「あのさ、外で集中するのやめとけよ」

「え? えっと??」


 汐里にしてみれば、あまりにも突然なことで、理解が追いついていないらしい。きょどった瞳が俺の手のひらを見つめてぐるぐる回る。目を回すんじゃないかってほどの混乱を目の当たりにすると、こちらも自分のしていることへの理解が追いついてきた。

 状況を乱しているのは自分のくせに、それに追いついていけていないというのは、どういうことなのか。大事故は免れない。俺はさっと手を引き剥がした。


「俺じゃなかったら、どうしたんだ」


 平静を装って口にする。瞬間、汐里の顔が真顔になった。俺の意見は正しく理解されたのだろう。


「気をつけてくれよ」

「うん。ありがとう」


 集中してしまうのは本来なら長所で、こんなふうに直せと言われてすぐに直るものでもない。無意識のもののはずだ。意識で集中を調節できるなら、誰だってやっている。

 だが、実際そんなものはおおよそ体調や気分というおおまかな外部要素を含んだ曖昧なものだ。それをコントロールしろと言うのだから、難解な注文をつけている。しかし、汐里が反駁することはなかった。

 こうなってくると、こっちのほうが始末に悪い。仮に注意を促すため、という体裁があったとしても、パーソナルスペースを犯したのだ。汐里だから慌てるというリアクションで収まったが、他の誰かであったら殴り飛ばされていてもおかしくない。そして、俺には弁解のしようがなかった。


「悪い」


 自省の末の返事は、感謝とは呼応していない。汐里はまたぞろ置いてけぼりを食らったように目を白黒させる。

 よろしくない振り回し方をしていた。自分本位に動いている。冷静になったつもりでいたが、どこかおかしいままだった。


「触ることはなかったな、と思って。セクハラだろ」

「……お目こぼしってことにしといてあげる」


 自分の落ち度を説明するのは間が悪い。それも、セクハラめいたことだ。汐里も気まずそうに視線を逸らす。

 すぐに空気がおかしくなるのは、甘楽に友人推しを食らってからずっとそうだ。いつもはそれほど分からないのだが、こうしたイレギュラーが発生すると顕著になる。もはや、甘楽のせいにしてしまいたいくらいだ。


「ありがとう。で? 何を迷ってたんだ?」

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