エピローグ

 がらりと空き教室の扉が閉まった瞬間に、気が抜けた。席に着いた拍子に、汐里が机にうつ伏せて脱力する。俺も腰が抜けた。大したことをしたわけではないのに、と思っているが、それでも虚脱感はなくならない。

 ぼーっと机の上に広がった絹のような髪を見下ろす。黒々としたそこに木漏れ日の光がまだらを作って揺れていた。眩しい。とても目が離せなくなって、惹かれるままに手を伸ばす。

 そっと触れて撫でる手つきは、南野のようにスマートではなかった。それでも、あのとき姫凪が反応を示さなかったことを思うと、汐里の反応はずっと顕著だった。

 ぱっと顔を上げた汐里は、ぱちぱちと目を瞬く。その薄い灰色にも見える瞳も、俺を惹きつけてやまないのだからどうしようもない。当人はまったく気がついていないのだろうな、と思うと苦笑が零れた。

 そういうアプローチをしたつもりはない。つもりはないが、俺はヌルさんだからという姿勢を持ち続けていた。もちろん、ずっとそういう気でいたつもりはない。付き合いが重なってくればくるほど、汐里は汐里としか見られなくなっていた。

 だが、汐里は当初の印象が強いのだろう。俺がこうする意味の視点がごっそり抜けているような気がした。今回の手法だって、結局いい思いをしているのは俺だ。

 昨日、姫凪の追及に、交際の噂を断ることはないと言っていた。それがどれだけ俺を有頂天にさせているのか。そうした機微を理解していないのだろう。頭を撫でたって、こんなふうにきょとんとしている純真さが、それを切々と感じさせる。

 本当に、この曖昧な道を採ってよかったのだろうか、と。確認もしたはずのことが馬鹿のひとつ覚えみたいに思考に上ってきて、安堵のせいで抜けていた力がほろっと口元を緩めた。


「……よかったのか」


 いじましい。しつこい。いっそのこと、卑怯だ。こんなに何度も確認作業を繰り返す。愛情を確かめる子どもみたいで、いたたまれなくなった。

 頭から手を引いて、自分の頭を抱える。それは自省のものだったが、汐里は俺が結末を気にしていると思ったらしい。その腕がこちらへ伸びてきて、頭に触れられた。

 怖々と確かめるような。弱腰な接触はくすぐったさを加速させる。その柔らかさで、なでなでと撫でられる。小さな子どもにでもなったような面映ゆさがあった。


「返事は変わらないよ。それに嘘は言ってないもん」

「嘘だろ」


 確かに、どうとでも取れる言い回しをした。

 付き合っている、を交際とも友人関係とも言っていないし、活動についても明言していない。動画込みで付き合っている。これは動画があるから、それに関わっているという取り方もできる。動画のことも含めて、すべて知ったうえで交際しているとも取れる。

 どっちだっていいようにしたし、実際、姫凪と南野では取り方が違っているはずだ。姫凪が前者で南野が後者。

 だから、厳密に言えば嘘じゃないと言えなくもない。だが、小賢しいものだ。大手を振れる解決方法ではない。みみっちいと言えば、そうして切り捨ててしまえるやり方だった。

 妥協するにしても、甘めに見てもらえるとしても、汐里の発言には誤謬がある。


「……ねぇ、蛍君」

「なんだよ」

「私ね、テーマパークに行きたいの」

「テーマパーク?」

「ノートの限定品が、パークのショップ限定で出るんだけどね、私の好きなキャラなの」

「……それで、俺?」

「うん。一緒に行ってくれない?」

「いいけど」


 断る理由がないので肯定は返したが、話の行く先が見えない。流れに首を傾げていると、汐里がご機嫌に頷いてくる。ますます意味が分からなくなって、当惑を深めた。


「動画にするから、この前みたいに写真を撮るのとか、動画とか、手伝ってくれる?」

「ああ」


 混乱していたって、汐里のお願いを断る理由がない。何より、困難なことを求められているのではないのだから、そのくらいは手伝える。二度目も流れの相槌だったが、汐里は我が意を得たりとばかりの笑みを浮かべた。


「動画込み、でしょ?」


 ことんと傾げられた首に連動して、髪の毛が流れる。思えば、その動きに何度も見惚れてきた。それは、初めからそうであったかもしれない。


「動画込みで、交換条件に付き合ってくれてる。違う?」


 俺が理解していないと思ったのか。汐里が言葉を重ねる。

 強引、というか。これもまた、いかようにも言い方のあるやりざまだ。自分のやり口を鏡のように返されて、苦笑が零れる。これを否定するのは、野暮というものだろう。


「違わないよ」

「だから、嘘じゃないでしょ? ありがとう」

「ありがとう??」


 嘘じゃないことするとして、それはいい。だが、お礼をされるようなことではなかった。俺だって当事者であるのだ。鎮火したかったのは、汐里のためだけということでもない。すっかり汐里に振り回されていた。


「うん。付き合ってくれて、ありがとう」


 そこなのか。

 胸が一気に膨れ上がる。そこに特殊な意味はない。友人として、動画込みで、交換条件があったから。それこそ、俺が曖昧に付属した意義しか含まれていない。

 それが分かっていたって、胸が満杯になって呼吸が難しくなる。姫凪のことをどうこう言えないほどにチョロい。


「こっちこそ、ありがとう」

「私も?」

「そりゃそうだろ。色々、文房具のことも勉強のことも教えてもらったし」

「そもそも黙ってもらってた」

「でも、今日は認めさせた」

「そうかな? とっても助けてくれたと思う」

「そうか?」


 どうしても、半端な方法を採ったという自覚が強い。もっと鮮烈で劇的な。一掃できてしまうような解決策が取れたなら、かっこもついただろう。だが、そんなヒーローみたいなことはできていない。

 それでも、汐里は力強く頷く。それだけで成果はあった。そう思えるのだから、やはり俺はチョロいのだろう。


「だから、これからも私と付き合ってね」

「俺でよければ」


 返事をできたのが奇跡だと思えた。そうした言い回しを教えたのは自分のようなものだ。流用されているだけだ。分かっていても、胸がときめく。

 キラキラと輝く太陽にスポットライトを当てられたように、汐里の笑顔が弾けた。

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しおりと繋がる文具縁 めぐむ @megumu

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