第四章

第18話

 甘楽はあれ以降、俺たちの仲を探る行為をぱったりやめた。代わりに、俺たちが話しているとどこか微笑ましい顔をしていることがある。首を突っ込んでくる面倒くささを排除できたことはよかったが、何か別の面倒くささを引き寄せた気がしてならなかった。

 だが、口にされるのとされないのとでは、されないほうが断然負担がない。なので、ちょっとばかりの視線などスルーしきっている。

 汐里のほうは、以前よりも気になっているみたいだった。その根底にあるものは、友人だなんだと言い合った際の羞恥心などだろう。思い出すだにむず痒さが反芻されるのはこちらも同じだ。

 そのきっかけとなった少女に観察するかのごとく視線を向けられれば、気にせずにはいられないのも分かる。ただ、それは気になるの範疇で収まっていて、スルーしているのは俺と一緒だった。汐里も粗雑な態度を取るものらしい。

 そして、勉強から逃げ回っていた甘楽も、そのうちに試験勉強をせずにはいられなくなったようだ。こちらに視線を向ける回数も格段に減って、俺たちは穏やかな日々を手に入れた。試験勉強に汗を掻いているのはこちらも同じだが。

 だが、今回の俺には心強い味方がいる。大変なことに変わりはないが、汐里のおかげでいつもよりもずっと平坦な気持ちで試験日を迎えることができた。

 そうして、俺は無事に試験を乗り切ったのだ。返却された答案用紙に赤点はない。胸を撫で下ろした俺は、その答案用紙を片手にこれ見よがしに特別棟へと出向いた。

 汐里が先にいるのはいつも通りだ。ただ、ここのところいつも勉強道具が広がっていた机の上は、以前通りの本へと戻っていた。集中力が切れないこともいつも通りで、俺の訪問にも気がついていない。

 そこに近付いて、机の上の空白地帯に答案用紙を並べた。どれだけ関係が砕けたとしても、さすがに開かれたページの上を占拠する勇気はない。そして、こんな微々たる変化では、汐里は気付いてくれなかった。

 前の席に腰を下ろして、背もたれに肘をついて様子を窺う。

 白い指先が、本の外殻に沿わされている。髪の毛が肩口から垂れて、紗のように光に透けていた。その髪の流れを毛先まで見つめていくと、なだらかな山に到着する。見るべきではないと分かっていても、稜線が分かる山から目を逸らすことは難しい。

 机に乗ってるし。大きい、と感想が沸いたところで、目を閉じて頭を振る。そのままそっぽを向いて、吐息を漏らした。ぐしゃりと襟足を掻き回す。友人に抱くべき感想ではないだろう。

 いや、それは純然たる事実であるので、胸中で抱くことくらいはあるだろう。だが、どうにも問題がある気がしてしまう。これは俺たちが異性であるからだろうか。それとも、甘楽に指摘され続けていた弊害だろうか。

 なんという厄介な探りを繰り返してくれたのかと思わずにはいられない。汐里との間に、邪さを持ち込みたくはなかった。悪いものだなんて思っていない。親密な関係と銘打つのであれば、求めていないとも言えないだろう。

 だが、汐里は……ヌルさんは、俺の推しだ。応援する相手という認識が強い。その彼女に下心をぶつけるなんて、とてもできたものではなかった。穢したくはない。

 そう思う一方で、必ずしも下賎なものではないだろうと否定する自分がいる。汐里は等身大の女子高生でしかない。穢すだなんて、それこそ傲慢な考えだ。男子高校生が抱く感想を胸に秘めておくくらい、何の問題もない。頭では分かっていた。

 ヌルさんと汐里は同一人物ではあるけれど、推しとクラスメイトの存在を同一視し過ぎるのもよろしくない。割り切れる気がしないと思っていた。だが、そろそろ折り合いをつけるべきころにきているのかもしれない。

 俺は汐里と向き合いたいのだ。友人だとあの日繰り返してくれた汐里と。

 勉強で据え置きになっていたが、あの日の会話を覚えていないわけでも、なくしてしまいたいわけでもない。羞恥に炙られてどうしようもなくなるので時間は欲しかったし、未だに取り出すのにも苦労しているが。

 だが、


「蛍君?」


 思考の狭間に届いた声に、びくんと肩を揺らした。ぎょっとした俺に、汐里のほうもぎょっとしたようだ。豆鉄砲を食らったような顔になっている。


「ご、ごめん。驚かせた」

「あ、ううん。私こそ、集中してたから……声、かけてくれた?」

「いや?」

「?」


 汐里に首を傾げられて、こちらも首を傾げ返した。

 何か変なことがあったというのか。集中している汐里に声をかけたって成果は得られないし、緊急性の高い用もないのにわざわざ声をかけて邪魔しようとも思わない。自分の中では正当性がある。汐里が何を疑問に思ったのかさっぱり分からなかった。


「じゃあ、何をしてたの?」


 尋ねられて、ようやく思考が結びつく。目の前にいる人に声をかけずにぼうっとしていた。

 何だ、それは。

 見惚れていた、とは口にできるわけもなかった。


「……しみじみ浸ってただけだよ」


 机の上の答案用紙を人差し指で叩く。そこでようやく、汐里は答案用紙に気がついたらしい。


「赤点なし?」

「ああ。汐里のおかげでな」

「良かった。蛍君が頑張ったからだよ。勉強して良かったでしょ?」

「スパルタは勘弁だけどな」

「そんなことしてないもん」


 ぷんと唇を尖らせた汐里が顔を背ける。ふわりと揺れた髪から、シャンプーの香りが広がった。花のような華やかで柔らかい匂いが、鼻腔を抜けて心臓までをくすぐる。


「真面目過ぎるのは玉に瑕だな、無自覚さん」

「……そんなに嫌だった?」


 つんとした態度が長続きしない。すぐに弱気になった汐里は、眉を下げてこちらを見上げてくる。

 どう見たって可愛くて、友人だとか推しだとかファンだとか。そうした気持ちが一緒くたに上ってくるが、今はそこに思考を割いている場合ではない。俺はふるりと首を横に振って答えた。


「おかげだって言っただろ? 助かったよ」

「でも、スパルタだって言ったじゃん」

「それとこれは別だろ? 次はもうちょっと優しくして欲しい」

「じゃあ、次はもっと短期間にご褒美用意する?」

「そんな手軽なのあるか?」

「お菓子とか」

「……手作りですか」


 思わず敬語になってしまったのは、ヌルさんの動画には時々お菓子作りが含まれるからだ。

 VLOG風のそれは、レシピや手順を動画にしたものではない。オーブンに入れる前の天板や、出来上がったクッキーの映像しかなかった。けれど、その完成度は知っているし、期待してしまうのも仕方がない。

 折り合いがどうだなんて考えていた矢先にこれなのだから、世話はなかった。


「蛍君がそれをご褒美って思ってくれるなら作るよ」

「嬉しいよ」


 つるっと声が出て、すぐに我に返る。


「いや、待って。それじゃ、俺がもらうばっかりになるからダメだ」


 手のひらドリルもいいところだった。だが、当然だろう。汐里だって勉強中のご褒美話なのだ。首を振った俺に、汐里はくすりと笑みを漏らす。確かに、意志薄弱だったかもしれないが、笑うことはないだろうに。


「代わりに何かしてくれればいいよ?」

「俺から?」

「それで釣り合いは取れるでしょ?」

「取れねぇよ。汐里の手作りとの釣り合いなんて取れるわけないじゃん」

「そこにそんな価値を見出されても困るんだけどなぁ」


 どんなに困り顔をされても、価値はある。ヌルさんという付加価値なんかなくったって、汐里の手作りというだけで十分過ぎる価値だ。

 女子の手作り。男がそれにどれだけあっさり釣られてしまうのか。とはいえ、それを直接的に口に出すのは自分のチョロさを暴露するようでいたたまれないので、取り出したのは別の理由だ。


「テスト勉強中の時間を奪えないだろ」

「そっかぁ。息抜きだと思えば気にならないのになぁ」


 ご褒美の話は、まるで餌付けだった。目の前に吊された餌の魅力に抗うのは難しい。息抜きなら甘えてもいいのか、なんて気の緩みが生じてくる。


「ふふっ」


 俺の揺れ動きが分かったのか。そんなに分かりやすいつもりもなかったが、愉快そうに笑われてむっつりと唇を引き結んだ。


「次までに何か釣り合いの取れるものを考えられたら、そのときはご褒美にしてあげるね」

「見つかると思えないんだけどなぁ」

「宿題」

「スパルタかよ」

「ふふっ。それよりも、今回のご褒美の話をしない?」


 俺を振り回していることが楽しいらしい。悪趣味だ。甘楽の悪影響でも出たのでは? と思ったが、あのとき以外で甘楽と絡んでいるところを見たことがない。たったあれだけでうつったとすると、感染力が凄まじ過ぎる。

 憮然としていると、


「文具店に行ってくれないの?」


 と、いじましい聞き方をしてきた。汐里は決して、意図していないだろう。天然なのは間違いない。

 このご褒美は俺と汐里のものなのだから、誘うような言い方をしなくていい。ご褒美はいらないのか? 行かないのか? と、もっと直截に言えばいいだけである。だと言うのに、この言い方には、こちらの心を疼かせた。


「行くに決まってるだろ」

「今週末は都合つく?」

「うん。大丈夫。そっちこそ、バイトいいのか?」

「休み取ってあるから大丈夫だよ。駅前集合でいいかな?」

「時間はどうする? 梯子するんだろ?」

「開店時間に間に合うようにしたいから……九時頃の電車かな?」

「駅から店までそれなりに時間かかるよな?」

「……私、どこに行くか言ったったけ?」


 問われて、ぎくりと身を竦めた。逃した視線の端で、汐里が首を傾げているのが見える。


「……購入品紹介とか見てれば、ちょっとは読めるじゃん」


 汐里も照れくさがっていたが、俺だって夢中であるかのようなことを告げるのは照れくさい。店まで把握しているのは、ただ見ているよりも一歩踏み込んでいるようでむず痒がった。

 しかし、目の前で自分よりも気恥ずかしげにしている人がいると冷静になるものだ。


「……そっか」


 恥ずかしいばかりであるようだが、満更でもないようだった。高揚したような相槌が、こちらの羞恥を更に煽る。ほわほわとした空気に塗れて、こそばゆい。


「時間、調べよう」


 その空気に耐えきれなくなって、現実的な話をする。汐里も同じ心境だったのだろう。俺たちは空気を打ち消すように、ご褒美を叶える計画を立てていった。

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