第22話

 向かってくる二人とは逆方向に早足で進む。俺と汐里の身長差での早足は、汐里に無理をさせるはずだ。それでも、今は一刻も早く場を辞退したかった。その気持ちは汐里も一緒のようで、小走りになってでもついてくる。

 レジに向かう必要があるが、ひとまずは三人から離れることが先決だった。商品棚を目隠しに相手の様子が窺える場所で足を止める。汐里も身を隠すように縮こまっていた。


「……悪い」


 ゆるりと手を離す。身勝手に交際を宣言してしまった。やり過ごすにしても、褒められたやり口はない。もっと穏便な手もあっただろう。

 南野の態度が七面倒だったがために、離脱することしか考えられなかった。説得する時間を節約したい。そのままに行動をしすぎた。

 今日の俺はそもそも行き当たりばったりで、その悪癖が出た。離れてみて、失態だったのではないかと冷や汗が滲む。汐里が黙ったままなのが、悲嘆を深くした。

 汐里の姿を見ていられなくて項垂れる。その視界の先に、汐里の足先が入ってきた。エナメルのパンプスは見慣れない。いつもと違うことを目の前に差し出されたような気持ちになって、罪悪感が培養された。


「……蛍君」


 静かな声音から怒りは読み取れない。しかし、それで大丈夫と思えるほど愚者ではいられなかった。汐里の呼吸音が、店内の喧騒を縫って耳に届く。断罪を待つ犯罪者の気分だ。


「……ありがとう」

「……お礼じゃないだろ」

「だって、私何もできなかったし、全部蛍君に任せちゃったもん。蛍君がさばいてくれてよかったよ」


 甘言にほだされそうになる。だが、どれだけ言っても、勝手に交際を認めていい理由にはならない。ましてや、俺たちの間にそんなものはないのだ。デートだなんてこともなかった。

 ……それっぽいと思っていたからこそ、それを認めている自分の言動に後ろめたさを覚えるのかもしれない。


「……それに、他の人と噂になるより、いいよ」


 少し浮ついたような。照れているような。聞き慣れない声に、はっと顔を上げる。汐里は目を潤ませて、上目にこちらを窺っていた。それと目が合って、ばくりと心臓が肋骨を突き破りそうになる。


「……汐里は、俺に甘いよ」

「蛍君が甘いからでしょ」


 その甘い、に恋愛事は絡んでいない。そういう意味ではない。分かっていても、ぐわんぐわんと頭蓋骨を揺らす。これは本格的にもうダメかもしれない。


「あいつら、行ったよ」

「……蛍君、分かりやすいよ」

「そこはスルーしてくれるところじゃないのか」

「私だって逃げ場を探してるもん」

「俺に突っ込むことを逃げ場にするのはやめてくれ」

「悪いと思ってるんでしょ?」

「おい」


 なかなかひどい攻め方をする。半眼を向けると、汐里は眉尻を下げて笑っていた。頬は名残だろうか。まだ薄らと上気したままで、困り顔。どうしようもなくなっているのを切々と感じるものだから、それ以上深掘りすることもできない。


「……悪かったよ」

「噂になっても一人にしないでね」


 脈絡がないように思えた。きゅっと眉間に皺を寄せると、汐里はわずかに俯く。物憂げな態度と一人という言葉が、哀愁を漂わせて胸が痛んだ。


「するわけないだろ」

「だったら、いい。気にしないから、文房具楽しもう。ね?」


 同志は貴重だ。俺たちの秘密の関係は、そうした感情を孕んでいる。そして、貴重さを成長させるものでもあったのかもしれない。

 今更話せなくなると思うと惜しくなる。それが文房具談義、だけに限られているのか。汐里と話せないことまでも含んでいるのかは、今はいい。

 とにかく、汐里の中では噂に振り回されて関係が変わる心配のほうが上回っているようだった。それを全面的に安堵する理由にしてはいけないだろう。反省はいくらだってしておくべきだ。汐里が容認してくれているから、終わり良ければすべてよしと言えているだけに過ぎない。

 こちらを見上げて首を傾げてくる顔色は、不安に揺れている。空気を変えようとしてくれているのを邪険に扱うこともできない。というよりも、俺のせいなのだから受け入れる他になかった。

 ふぅと息を整えて、改めて汐里に向き直る。揺れていた表情が、ぎゅっと硬直した。


「ああ、そうだな。なんでも言ってくれって言ったもんな。俺がご褒美あげる番だしな」

「そうだよ」


 へにゃっと力が抜ける。それは状況の改善に伴うものだろうが、こちらの言葉に緩い顔を見せてくれたことに変わりはない。迷惑をかけている相手に思うことではないかもしれないが、こっちまで気が緩んだ。


「行こう?」


 小鳥のように小首を傾げて、服の裾を引いてくる。べらぼうに可愛い。困ったな、とこめかみを揉んでしまった。

 汐里は、ダメ? とばかりにこちらを見つめている。瞳が雄弁過ぎて、喉が締まる感じがした。

 困る。外側から刺激を受けて気がつくなんて、とても格好がつかない。けれど、これでヌルさんと汐里の区別が明確になる。

 ファンとは別感情だ。

 思えば、汐里が可愛いのはその言動のすべてであって、文房具について語っているときではない。談議の際には、とても純粋に楽しそうだという感想を抱く。キラキラしていて、その気に当てられて気持ちがいい。そういうものだ。

 その区切りはとうに存在していた。気がついていなかっただけだ。それとも、気付かないようにしていただけに過ぎないのかもしれない。

 服を掴む手にそっと触れる。羽のような。そんな恐る恐るの仕草になったのは、気持ちに気付いたらだろう。今までのように無闇に触れることに気後れがした。

 しかし、汐里はそれを跳ね除けることもない。手を繋ぐというよりは、指を引っかけるような情けなさには、惨めになる。だが、自分にできる精いっぱいだった。


「行こうか」

「うん」


 本当にカップルみたいだ、と思ってしまったのも仕方がないだろう。

 ここまでだって、小さなところで思っていた。そこに南野から注がれた感覚で、より鮮明に輝く。こそばゆい。それだけでは済みそうにはない煮凝った気持ちが、ぐつぐつと煮詰められていく。複雑怪奇に入り組んだ気持ちは簡単に解けはしない。それを胸にしまいこんで、汐里の隣に並ぶ。

 繋がれた指先が離れることはない。どうにもならない感情を噛み砕く。もっと話すことがあるような気がしたし、考えなくてはならないこともあるような気がした。

 ただ、今はこの偶然にも舞い込んできたどうにもならない空気のただ中にいることをご褒美だと、身体が認識していた。そして、俺たちはそれを互いに許容した仲である。

 手放すことはなかった。




 むず痒くて、苦々しくて、微笑ましくて、幸福な時間はあっという間に過ぎ去った。

 それは、念願の文房具店を訪ねられたこともある。大部分がそれを占めていたが、それを汐里と同行できた部分も大きい。

 認めてしまえば単純なことで、そして、自分の行動にもんどり打ってしまいたくなった。というか、実際ちょっと布団の中で転がった。せいぜい二・三度寝返りを打てたくらいだったし、何の効果も得られなかったが。

 そして、興奮が終わってしまうと、自己嫌悪がひどくなる。それは日を跨いでも一向に上向くことはなく、悪化の一途を辿った。

 翌朝は月曜日。南野と顔を合わせることになることを思えば、陰鬱とした気持ちも当然と言えた。嵯峨山と和泉に話してしまったか。他の誰かに漏らしてしまったか。南野を軽薄だと思っているわけではないが、悪気なく伝えてしまうことはあるだろう。

 秘密だと言ったが、その重度は他人には分からない。悪気ない、というのは非常に厄介な代物だ。俺たちのことを言いふらしたところで何の得もないが、だからこそ、そろっと漏らされることはある。

 杞憂を胸に抱えて、緩慢に通学路を進んだ。教室にたどり着いたところで、特に違和感はない。南野と目が合ったが、何も言われることはなかった。思ったよりもずっと律儀だったのかもしれない。

 安堵の息が漏れる。脱力して席についたころを見計らったように、汐里が姿を現した。

 そして、それが契機になったかのように、教室の視線が揺らめく。意図したものがまとわりつくのは、席が近いからか。それとも、やはり俺も含んでいることだからか。前後席分の視線の誤差を悟れるほど、感覚が洗練されてはいない。

 目線を投げて確認できるわけもなかった。汐里だって同じだろう。不和の生じるこちらを探るような目がなぞった。やっぱり噂にされているか、と気になって仕方がないが、無視するしかない。

 目の前の背中も、余所事だとばかりに凛としていた。凛々しい。美しい。きっと、注目を浴びるのは、得意じゃない。

 匿名ならば……ヌルさんとして不特定多数に見られるならまだしも、こんな針のむしろで平気でいられるタイプじゃなかった。罪悪感が膨らんで、息苦しい。それを感じていることすらも、気分が悪くなった。

 どうしたらいいのか。

 そうして迷っているうちに、甘楽がふらっと近付いてきた。肌が粟立ったのは、甘楽が問題を運んでくることが容易く想像できたからだろう。

 しかも、甘楽が近付いたのは俺ではなく汐里だ。何を言うつもりだ? 一瞬で汗が噴き出る。気がつれば、咄嗟に椅子を引いていた。後先はまったく考えていない。

 それでも、甘楽の動きを制することはできなかった。無慈悲に唇が開かれるのがスローモーションで脳内に焼きつく。


「阿万野さんって動画投稿してる?」


 地獄の釜が開くかのようだった。周囲の視線がどこを刺していたのか。それが判明したことで、血の気が引く。

 俺が気付いたのだ。他の誰も気がつかないなんて保証はどこにもなかった。その可能性に気付くのが遅過ぎる。汐里の背が弛むことはなかったが、横から見る顔色は真っ青になっていた。眼前に立っている甘楽を愕然と見上げている。


「違うかな?」


 邪気なんてひとつもない。悪気がなきゃいいってわけではないけど、甘楽の無邪気さを前に現場は焼け野原だ。半端な場所に立つ俺も汐里も、微動だにできなかった。


「これね……」


 要領を得ないと思ったのか。いつもの興味への熱心さが顔を出したのか。甘楽がスマホを取り出してくる。これで勘違いでも何でもなく身バレしていることが確定して、ただでさえ真っ白な頭が更に漂白されてしまった。

 そして、汐里はそれ以上の衝撃で爆発でもしてしまったようだ。強く物音を響き渡らせて立ち上がる。わざとではないだろうが、わざとであるかのような爆音が鳴った。

 汐里は駆け出そうとして俺にぶつかりそうになる。今にも泣き出しそうに顔面を崩していた。声をかけなくては、と思うが言葉が出てこない。舌すらフリーズしているのだから、それ以上が動くわけもなかった。

 そうしている間に、汐里の腕が俺を押しのける。どたばたとけたたましい足音を立てて、汐里は教室から出て行った。

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